1964年3月、白玉書房から刊行された津田治子(1912~1963)の遺歌集。
目次
- 序 五味保義
- 昭和二十九年(七十五首)
- 昭和三十年(百十六首)
- 昭和三十一年(五十九首)
- 昭和三十二年(七十六首)
- 昭和三十三年(九十三首)
- 昭和三十四年(九十六首)
- 昭和三十五年(八十九首)
- 昭和三十六年(八十九首)
- 昭和三十七年(六十五首)
- 昭和三十八年(百十二首)
津田治子略年譜
あとがき 谷幸三
NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索
1964年10月、思潮社から刊行された小沢達司の詩集。
まったく偶然の機会からこの詩編をものにすることができ、結果的には思いもよらぬ作品になってしまった。始め私は何気なく書き損じた原稿用紙の裏に港町という一般的なテーマを詩にしようと書いているうちに、頭に横浜のイメージを浮べていたので、そのイメージを一歩進めて横浜というそのものを詩にしたらおもしろいのでないかと考え、書きたしたり、なおしたり、省略したりしているうちにこのような詩編ができあがったのである。
この作品を書くことによって私は横浜そのものから教科書をひもとくように非常に多くのものを学ぶことができた。作品の出来不出来はともかくとしてもこの詩をものにしたことはまったく有意義であった。がしかし、一体私は詩人であるのか、社会学者であるのか、一市井人であるのか自問せざるを得なかった。学者のようにいろいろな資料をずいぶんあつめ私なりに研究を積み重ねたし、また一市井人として社会の悪に対してはずいぶんいきどおりを感じ、あるいはまた詩人として作品を作ることに大きな喜びを感じたのである。この三位一体がこの作品を産みだしたともあるいはいえるかもしれない。詩人が自分の世界にだけとじこもり、こまやかな情を巧みをもって歌うことが、詩人らしい詩人、詩らしい詩、詩人の本来的なありかたとして美徳とされるなら、この私の詩は最も詩らしくない詩ということになるだろう。
この詩に統計数字、固有名詞、会話体を思いきっていれてみたことでいっそう具体的客観的なものになったようだ。まだまだこの詩には手を加えねば気がすまぬ点が多いし、年月とともに書き変えねばならないものだ。あまりにも横浜は複雑多様深大である。一人の人間にはとうてい手におえるものではない。この作品ではざっとうわっつらをなでたにすぎない。百人寄れば百人百様の横浜が表現されるはずである。
(「あとがき」より)
1996年10月、本多企画から刊行された伊藤一彦(1943~)ガイドブック。著者は宮崎市生まれ。刊行時の住所は宮崎市大島町。
目次
一、『海号の歌』作品抄(平成七年九月三〇日雁書館発行)
二、 「海号の歌』の世界
三、自選作品─歌とエッセイ
略歴
NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索
1979年9月、新日本歌人協会から刊行された山埜草平(1902~)の歌集。編集は赤木健介、井伊脩、高群郁。
目次
歌人山埜草平 序にかえて 赤木健介
一九二十年代の小山君 松本三益
無口で詩人肌の小山宗君 掘卯太郎
第二無新時代の小山宗君 高橋勝之
・『短歌評論』時代
・『短歌時代』時代
・『人民短歌』時代
あとがき 髙群郁
山埜草平の略歴
1987年12月、牧羊社から刊行された飯島晴子(1921~2000)の100句選集。装幀は伊藤鑛治。
作者は自作一句について、その入口を話すことはできる。入口を知っているのは作者だけである。しかし、一句が何処へ出たかについては、作者もまた読者以上に何を知っているわけでもない。作者も読者の一人に過ぎない。作品が最後に出た処は、読者それぞれによって微妙に、或いは大変に違う。つまり俳句は、他人に読んで説明してもらうことはできないのである。そこが俳句の面白いところでもある。
だからこの百句についても、入口だけを書くように心掛けた。この外にも愛着の作品はあるが、それはもはや入口すら思い出せないので、書くすべがない。どうしても、書きやすい句を選ぶことにはなった。ただ、入口の千差万別の様子は、俳句に日の浅い人に参考になるかと思う。俳句は、いつどこから降って湧いてくるかわからない。
この本をまとめてみると、約半数が、いろいろの仲間に誘われることがなければ存在しなかった作品である。機会を与えてくれた俳句仲間の有難さが身にしみて思われた。
(「あとがき」より)
NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索