1932(昭和7)年6月、朝日書房から刊行された馬郡沙河子の紀行文集。2004年12月、ゆまに書房から復刊された。
太陽の如く輝やかしかる可き女性が、日本に於ては餘りに不自由な、餘りに束縛多い生活の中に閉ぢ込められてゐる。女であるが故に娘時代は父親から、嫁しては夫から、老いては息子から絶えず看視的な眼を向けられて恰も日蔭に咲く青白い花の如く、弱々しく育つて悲しみと涙の多い一生の中に、淋しくも消えて行く。
私は物心つく時分から何故に日本の女性は、常に男性の奴隸として意志を失つたロボットの如くに盲從を強ひられ、默々としてゐねばならぬのか不思議であつた。中流階級の家庭婦人の仕事は三度の炊事と洗濯、裁縫、それに育兒の爲めにに一日も之猶足らずの忙がしさであるが、何等自身の向上に資すゐ讀書も暝想の時間も與へられず、又自由に外出し自由に見聞する事も許されない。
併し今や廿世紀の文明け眠れる幾千萬女性の心に光明を投じ、歐米先進國の婦人達の社會的活動振りが次第に吾國に力強い警鐘を打鳴らしては來たが、まだ一部の婦人方は單に男子と鬪つて職業戰線に進出する事に沒頭し、或夫人逹は議會に押かけて婦人參政權を手にする事のみ、日本女性の幸福が有る如く考へ中には徒にヤンキーガールの服裝や、表面的自由のみを模倣して天晴れモガを氣取つて淺薄な生き方をしてゐる人達もある。
女性が眞に幸福を得る鍵は何處に在る? 男子横暴を極めてゐる家庭を一蹴して、實社會の渦に身を投じ昭和時代のノラを演じたらその幸福の鍵を手にし得やうか? 涙とあきらめを唯一の慰安として過ごした過去數十年の生活を弊履の如く捨て去り、水々しい丸髷も根こそぎ切り落とし、ハイヒールで銀座のペーヴメントを踏めば?
併し現代り若い女性達の多くも外見程には思想の改革を行つてゐない。生活を力強く生きずに相變らずの消極的な因襲的存在を續けてゐる。臺所と寢室から目を屋外に投じ、且つ内的生活に深い思索を與へる等とは凡そ程遠いものである。
飜つて歐米婦人の生活は? それは眞に自己を生かし自由を喜び人生を樂しんでゐるであらうか。私は屡々書物で映畫で講演で座談で、外國婦人達の束縛のない明るい生々とした生活斷片を知つた。併し「百聞は一見に如かず」である。私はそうした海外の婦人達と親しく交際をして日本婦人との思想の相違、生活の相違を直接胸に感じたかつた。この願望は一體何時の頃から私の胸の中に刻まれてゐだであらうか。成長するにつそれは解き難く堅い謎となり、消し難くはつきりしたものになつて來た。けれど女一人で海外に一歩足を踏み出す事の事實はなかなか空想する程容易でなく、無謀に等しい位思ひ切つた冒險である。而し幸に理解深い父は旅費仝部を心よく與へ、門出を喜こんで呉れた事は私一生の感謝である。
か弱い世代の娘が單身シベリヤの荒野を通り、西の涯に旅する事は涙ぐましくも悲壯の感があるが、私の決心は強かつた。外國の風土風俗に接し、外國婦人とも親しく日常生活を共にして長所短所を見極め日本女性の特質も發揮して、生きた學問と修養を積みだい一心は矢の如くであつた。
滯歐中、その間には健康を害し哀れ死の危機に直面した事もあり言葉を解し得ず旅の赤毛布を演じた事も屡々、又母國戀しく眠られぬ夜も續いた。
顧みれば徒らに惱み多くして得る事の少なきを憾む。まして始めて筆とる悲しさには、思ふ事の幾分も發表し得ず、皆樣に御一讀願ふも厚かましい氣さへする。たゞ世のあらゆる階級の女性方が、もつと眞の自由と幸福を握られ、太陽の如く輝やかしい生活を送られる爲に幾分でも役立つならば、著者の欣快之に過ぎるものはない。
(「はしがき」より)
目次
- さらば母國よ
- 連絡船
- 玄界灘
- 朝鮮での苦笑
- 投身自殺
- 流す筏は鴨緑江
- 北滿州長春驛
- 旅は道づれ世は情け
- ハルピン情調
- ロシヤ婦人の肌
- 支那町
- 停車場の掏摸
- いらぬおせつかい
- スパンボ
- ロシヤ料理
- 相客
- 日本娘とロシヤ青年
- 彼等の日本婦人觀
- シベリヤの旗
- バイカル湖
- モスコー
- ロシヤの結婚
- ロシヤ婦人の放縱性
- 不幸な人々
- ポーランド
- アレー 助けて!
- ドイツ婦人の堅實性
- 獨乙國民性
- 獨乙學生氣質
- 巴里婦人
- 巴里のカフエー
- 藝術の都巴里
- フランス學生氣質
- 巴里の早朝
- カフエーと夜の女
- 憧憬のロンドン入り
- ロンドンYWCA
- 煤烟の都ロンドン
- 日本キモノ
- 英人の事務的態度
- 黄色人の姿
- フォークと箸
- シェークスピアの故郷
- 怪しき男
- ロンドンのレストラン
- 倶樂部
- ホームシツク
- 英國婦人代議士
- ウエストミンスター寺院
- ポライトな英國紳士
- ロンドン塔
- 英國のホームライフ
- ネルソン塔
- ロンドンのお風呂
- ハイドパークに寫つた英人氣質
- クリスマス晩餐會
- 婦人方のお化粧振り
- 英國レデーの一日
- 雨の歌
- オ母サン
- ナイフとフォーク
- ロンドンのダービー
- 戀に生きる女中さん
- 英國博物館
- ロンドンの地下鐵道
- サナトリアム
- 靴のまゝベツトとは
- トイレツト
- 英國の女流小説家
- 日曜には家族連れで
- 人力車とタクシー
- ナショナル、ギヤラリー
- 永遠の若さを保つハンニー孃
- ロンドンのお巡りさん
- 羨しい英國の犬
- ロンドンの乞食
- オイコラ主義
- 窮屈な食卓作法
- ロンドンの五月
- トップ、オンリー
- 牛津大學
- 劍橋大學
- ロンドン大學
- 勞働大學
- リバプール
- マルセイユ
- ナポリの港
- イタリー學生氣質
- 船室からイエースの返事
- スエズ運河とボートサイド
- カイロ
- 紅海を通つてアデンへ
- 印度洋に泳ぐ
- セイロン島
- 船中若返り法
- 船中假裝舞踏會
- 常夏の國シンガポール
- 香港のヴイクトリア、ピーク
- ユートピア
- 上海のスキヤキ
- ロンドンの思ひ出
- 着物か洋裝か
- 男女共學
- レデイと煙草
- 英人の戀愛とホーム
- 英國のお母樣
- ロンドンの美人觀