1993年3月、思潮社から刊行された川口晴美(1962~)の第4詩集。写真はDeborahTurbeville、装幀は小宮山裕。
夜になると、眠れなくなる。朝も昼も、ブラインドの隙間から漏れ入る日射しが寝台のシーツのうえでゆらゆら揺れている間は、窓の下の通りから届く漠然としたざわめきを聞きながら、いくらでも安らかに眠りをむさぼることができたというのに。わたしが暮らしているのはマンションの二階の部屋だ。そこにひとりでいると、夜はひりひりする感じがする。夜の皮膚は薄いのかもしれない。わたしの皮膚も薄くなり、夜と擦れあって、眠れなくなる。眠れなくて、テレビをつける。音は消しておくから、隣接する高速道路を車が走り過ぎる音がかすかに聞こえるだけ。部屋の電気も消してしまうと、部屋は夜の箱になる。テレビは夜の光の箱。その光が床板にうつっている。床のうえでは映像のくっきりとした輪郭は失われ、ぼんやりかすんだ色がせわしなく変化しながら小さなプールの水面のように揺れる。いいえ、そこには水などないからプールというよりは、むしろ小さな庭だ。テレビの何人もの女や男が、わたしの庭のなかでぼやけ、皮膚という境界もあいまいに、混じりあっている。わたしはそれを見つめ、それからそこ、夜のわたしの庭に、横たわる。目を閉じて、少しだけ眠くなって、わたしは彼女・彼・あなた・わたし……と混じりあう。テレビの光は、わたしの薄い皮膚にもうつっている。額や頬や鎖骨のくぼみが、ズレ重なって動くあやふやな影の色に染まる。その光は眠気のようにゆっくりと深くわたしの内へしみこんでくるから、わたしはこんなにもたやすく彼女で、彼で、あなたで、わたしで、せわしなく変化を繰り返し、わたしは彼女ではなく、彼ではなく、あなたではなく、わたしではない。――やがて、ようやく夜の眠りが訪れると、彼女も彼もあなたもわたしもすべて消えてしまう、そのとき、消えてゆく庭につかの間響き残るかすれた声は、彼女のものだったのだろうか、わたしのものだったのだろうか、それとも砂嵐に似た夜を突き抜けて走る高速道路のアスファルトのきしみだったのだろうか。
(「あとがき/夜になると庭は人影でいっぱい」より)
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あとがき 夜になると庭は人影でいっぱい