1997年8月、本阿弥書店から刊行された池田はるみ(1948~)の第2歌集。装幀は近藤浩子。第6回ながらみ現代短歌賞、第23回現代歌人集会賞受賞作品。
阪神大震災の後から、わたしの目の前にわずかな蛍が飛ぶようになりました。
あの日、私はいつものようにぼうと起き、午前九時頃の義父の電話で震災を知ったのでした。テレビをつけて驚きました。はたして、姉や二人の叔母や多くの従兄弟たちや友人たちが罹災していました。幼い私が自分の家よりなついて、朝な夕な出入りしていた親戚の家も全壊していました。私のこの世の密かな根拠地として大切に思っていた家が無くなりました。
地下鉄サリン事件は、東京築地の義父の家の近くでおきました。終日取材のヘリが頭の上を舞い、家の前の新大橋通りには、このようなものが日本にあったのかと驚くような特種車輛が並んだ、と自動車屋を営む義父が言います。たくさんの人が家の近くの駐車場に寝かされました。やったのはオウムだ、と確信に満ちて義父がめずらしく推測を言ったのでした。
この時から、わたしに飛ぶ螢の数がすこし増えました。
夫に重大な病名を告げられたとき、わたしの蛍の数は限りなく増えていました。運命に身を任せるよりほか無いながら、それでもどうしようもなくわたしはあがいていました。蛍は幾月も、私の暗闇にぼうと浮かんで、ゆっくりと大きな大きなかたまりになり、やがてそのかたまりがふわふわになり、拡散するように消えてゆきました。
夫の手術が成功していました。この歌集はわたしの四十代後半のものです。おんな華やかなりし八十年代、ある女優さんが「四十八歳おんな盛り」といい、「豪華客船に乗っているよう」と若い恋人に言われていました。阿呆な私は、そんな四十八歳が来ないものかとあこがれていました。私の四十八歳は、「板コ一枚の下は地獄」という嵐の海をボロ船で渡ったようなものです。社会的な事件に、個人が否応なく巻き込まれてしまうのを見せつけられた年月でもあります。
東京と大阪はこれからも私の根拠地であり続けるでしょう。異類婚の神話を折口信夫が、異族の母の離婚譚として悲劇を見たのは、私をいかほどなぐさめてくれたことでしょう。「わたしは鰐である」という意識は、なつかしい豐玉姫と共に私の中に住み続けています。東京に来た大阪の鰐の女は、文化の違いに、見た目よりかなり苦しみましたが、それより、このできの悪い異族の嫁を可愛がってくれた義父母や、東京というひろく新しい土地への賛嘆が多くふくまれているように思います。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ (一九九一年~九三年)
- 恋唄
- ろしあ
- 部屋1
- 相撲
- 部屋2
- 都市霊1
- 都市霊2
- 水族の館
- つゆの恋
- 都市霊3
- 妣が国・大阪物語
Ⅱ (一九九四年)
Ⅲ (一九九五年)
- 一月十七日メモ
- 月とれんこん
- AUM
- こども
- 相撲に思ふ
- 銭湯
- むかし吉原界隈
- 東京昨今
- そばとうどん
- 戦後の子供
- 物怪
- 螢火
- 青き垣
- 秋の縁側
- 地震より十月
- 新宿十二月某日
Ⅳ (一九九六年)
あとがき
NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索