1941年4月、青垣會から刊行された菅野清子の歌集。
歌といふものをひとりでつくりはじめたのは、女學校四五年の頃であつた。長澤美津樣に歌の指導をしていただく樣になつたのは、昭和三年二月のことでそれ以來歌の上は申すまでもなく、すべての上に恩情を戴いて今日に至った。みていたゞいた歌が青垣第五號から載り、歲月だけは十三年も過ぎた。その間丸二年全然歌の出來なかつた年があつたが、とぎれがちにともかく現在に及んでゐる。昭和六年暮に山口縣長府にはじめて家庭を持つてからは、諸所を轉々し殆んど夢中で過ごした年月であった。
歌はその場ふさぎになる一方の私に、一應今までの歌をまとめることを、長澤様は熱心におす込め下さつた。どうしてもその氣になれない時に、用紙まで、この程御出版の歌集「花芯」の分より分け下さつた。その深いお心づくしが、これをまとめる機縁となつたのである。記して先づ感謝を捧げたい。
橋本德壽先生には、いつも御指導をいたさき何や彼やお世話になつてゐる上に、この度は跋文を賜はり、身に餘る倖せと深く感謝申上げる。つねにおはげましいただく青垣の皆様にもこの機會に御禮を申上げたい。なほ玉田登久松樣に校正その他萬端の御骨折を戴いたことを有難く思つてゐる。
およそ十年間の五百首で、量質ともにまことに心に満たないものであるが、この後はもう少し努力して、省みて悔のないみちを一歩でも歩みたい念願である。
「風花」とは晴天にちらつく雪の意である。幼時、新庄、秋田に住み、嫁して山形、新潟、北海道と雪國に縁の深い私は、雪に關した名をこの集に附したいと希つたのである。
(「巻末記」より)
目次
昭和三年
昭和四年
昭和五年
- 歸路(九首)
- 心(六首)
- 含嗽藥(三首)
- 房州仁衞門島(三首)
- 面輪(四首)
- 群蛙(三首)
- 利根川べり(四首)
- 墓地(三首)
- 犬(七首)
- 縁日(二首)
- 寒夜(五首)
- 眼を病む(八首)
- 花卷の山野(八首)
- 北海道行(十五首)
- 偶感(二首)
- 荒川べり(五首)
- 夜道の犬(二首)
- 屋島行(三首)
- 凧(四首)
- ひとのひとりを(五首)
- 下田行(三首)
- 或る時(六首)
昭和八年
昭和九年
- 別れ住み(十五首)
- 舅の死(一首)
- 栗橋住み雜詠(十八首)
- 餘響(六首)
- 足を折りて(十五首)
- 籠りゐし命(七首)
- 砂あそび(四首)
- 大連への旅(十首)
昭和十年
昭和十一年
- 轉勤(十三首)
- 雪晴れ(一首)
- 馬見ケ崎川(八首)
- 練兵場(八首)
- 雨雲(六首)
- ひとを悼む(一首)
- 手術場(六首)
- 夏雜詠(六首)
- 秋(九首)
- 高玉温泉(四首)
- 悼歌(十二首)
- 冬籠り(十首)
- 長女生る(十一首)
- 最上川(一首)
- 旋風(二首)
- 山形を去る(四首)
- 岩代熱海温泉(二首)
- 新潟(七首)
- 夜の信濃川(三首)
- 二人子病む(四首)
昭和十二年
昭和十三年
- 他郷迎年(二首)
- 霰(十一首)
- 友の死(三首)
- 突堤(七首)
- 月(二首)
- 産屋詠(十首)
- 靜岡(五首)
- 氷片(二首)
- 正月の燒津濱(六首)
- 赤兒(六首)
- 茅ケ崎海岸(六首)
- 長澤姉を迎ふ(二首)
- 螢(四首)
- 這ふ子(三首)
- 興津川(四首)
- 沿線觸目(九首)
- 荷造り(一首)
- 昔のわが部屋(五首)
- 札幌(四首)
昭和十四年
昭和十五年
- 弟應召をきく(二首)
- 冬雜詠(九首)
- 陽光(三首)
- 長男就學(三首)
- 春來る(五首)
- 家居(六首)
- 北大構内(五首)
- 小兒科病院(五首)
- 子の運動會(三首)
- 短き秋(五首)
- いのちありて(四首)
- 再びの冬(十首)
- 遠き人(四首)
- 赫き月(五首)
- 看護越年(五首)
- 街住み(七首)
- 病友(四首)
- 夏日日常(十三首)
- 奧日光(一首)
- 十二月一日(四首)
- 十二月十五日(一首)
跋・橋本徳壽
卷末記