1990年11月、牽牛書舎から刊行された鎗田清太郎(1924~2015)の第4詩集。刊行時の著者の住所は豊島区池袋。
一九七二年(昭和四七)最初の詩集『象と螢』が出てから、まったく意識的でないのに、六年目ごとの詩集出版になり、一八年後に第四詩集となった。私の年齢では寡少かもしれないが、もともと詩についてはスローペースであり、第一詩集に三十年間の作品をセレクトして入れたことを思えば、その後は己を知ったペースといえようか。しかし、時間というものは恐ろしい。一つの詩集ごとに前の詩集になかった自他の変化が現れる。第一詩集のテーマは戦争体験でありベトナム戦争も反映していた。第二詩集には父の死があり、鳩や文鳥が目立つ。第三詩集には大森忠行の死、沖縄与那国島紀行がかなりのスペースを占めている。そして、今度の詩集には母の死、複数の知己の死、孫娘亜弓への関心が隠顕するだろうし、古典的世界との交錯も見えるかもしれない。「逝くものはかくの如し。昼夜をおかず」その意味で一つ一つの詩集は私の生の証しである。はたして今から六年後にも私は生を証すことが出来るであろうか。あるいはどんな生を証すであろうか。
そのように詩は生の証しではあるが、制作意識としては、非力ながらも、「言葉の芸術としての詩」を私なりに意識しつづけて来たことも事実である。詩も文章である以上叙述ではあるが、叙述であってついに叙述におわるならば詩ではありえない。叙述であって詩であるためには何がなければならないか。言葉による現実性の非現実性への転換、その逆、つまり非現実の実在化、意味とりズムの照応など課題はあまりに多く重く、意識のみ強くて成果の貧しさを恥じなければよいがと気づかいつつも、前向きの姿勢だけは崩したくないと思う。その意味で巻末の「詩人高井半太郎伝」などはどう読まれるだろうか。前の詩集に入るべき古い作品で、収載をしばらくためらっていたが、私には愛着があるので、あえて収めることにした。
とまれ、過ぎ去れば人生茫々、「下天のうちをくらぶれば夢まぼろしのごとくなり」私たちの人生はついに幻泳であるか。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 思い川
- 夜のトラック
- 幻泳
- 天のデパートから
- 雀
- 舎利礼文
- 雪
- 亜弓の夢絵本
- 方位について
Ⅱ
Ⅲ
- 小豆島にて
- 冬の旅1
- 冬の旅2
- 波
- 神の池へ
- 山家行
- 植物行
- 明日香
Ⅳ
- 詩ができない日
- 夕顏
- 寓居
- マコンドの鶯
- 紫陽花
- 詩人高井半太郎伝
あとがき