1966年12月、現代社から刊行された佐藤勝治(1913~?)の随筆集。装幀は勝正弘。現代新書。刊行時の著者の住所は盛岡市帷子小路。
前述の事情で、先生とは距離的にも精神的にも遠く離れた暮しをしておりましたから、新聞先生の死を知った時、私の気持は複雑でした。単純な悲しみにもひたり切れず、無関心でもおれず、何かそわそわおちつきませんでした。
そこへ突然古くからの友人森荘己池・菊池暁輝両氏から、追悼会を行うから当時の思い出をしてくれと電話が来ました。私は困ってしまいました。すっかり忘れてしまっているのです。断片的な思い出がちらつくだけで、とても三十分や一時間、まとめて話をすることはできません。けれども両氏は命令的に決定してしまっているので、やむを得ず壇上に立ちました。わずかな思い出をやっと語り終えました。ところが翌日盛岡市加賀野の大村洋裁学院の大村氏が、昨日の話は面白かったから、うちの学校にも来て話をしてくれと言って来られました。
森荘己池氏も、それはいい機会だから、当時を思い出して記録しておいたがいいとおっしゃって、大村学院で一週一度ずつ数回にわたって、私にいろいろ誘導訊問をして下さいました。私はかけられた魔法が解けていくように、順々と当時を思い出して来たのであります。それと同時に、今まで読んだことのなかった先生の著書を、及ぶ限り集めて読みました。そこで私は驚いたのです。先生が私の事を親愛の情をこめて書いておられることに。
又、先生が私にお話して下さった事柄は、たいてい作品となっていることも知りました。私は当時を懐かしく思い出すことが出来ました。
「第一章 山荘の高村光太郎」は、昭和三十一年四月二十六日の盛岡市内丸自治会館で行われ追悼会の講演記に加筆したものであります。「第二章 高村先生の思い出」は、大村学院森氏の誘導で思い出したものの速記をもとにしてまとめたものであります。この章の第二部は、後で書き足したもので、前の方とは幾分調子が違うと思います。
「第三章 高村先生のお話」は、当時の先生のおりおりの講演を、私の同僚であった菅原トシ子さんに頼んで、先生のお許しのもとに、その頃私の出していたパンフレットに載せるために筆記していただいたものであります。これは今では非常に貴重な文献で、こんなによく書いて下さった菅原さんに厚く御礼申し上げます。
私はこれらを書き上げた後に、ややしばらくは本にしようとは思いませんでした。あまり自分の事を書きすぎているようで気がひけたことと、こんなものはいまさら本にするねうちは無と思われたからであります。
偶然のことで、現代社の枝見氏に見ていただいた所、大層喜んで下され、氏からお願いした佐藤春夫先生もまた出版して然るべき旨を言って下されて、ここにこの本が出ることになったのであります。
あの頃の先生の様子と環境とを、なるべく客観的に表わしたいとは思いながらも、結局私との交渉における先生、私を通しての先生という狭いものになった事はやむを得ません。大きく叩けば大きく響き、小さく叩けば小さく響いた巨人高村光太郎の、これは小さく叩いた小さな響きであります。高村先生研究の上に少しでも参考になれば幸いです。
(「この本の成り立ち」より)
目次
「山荘の高村光太郎」敍
はじめに
・山荘の高村光太郎
- 花巻の戦災
- 小屋を建てる
- 分教場の生活
- 独居自炊
- 山口部落
- 雪白く積めり
- おびただしい訪問者
- 先生の四季
- 懐かしい先生
・高村先生の思い出
Ⅰ
- 先生の環境順応
- 月にぬれた手
- 美の宗教
- 東京エレジー
- 智恵子さん
- 弟のように思えた秩父宮
- トンカツ屋の娘
- 智恵子観音
- 先生に怒られた話(1)
- 先生に怒られた話(2)
- 幽霊と格闘した先生
- 智恵子夫人の霊魂
- 佐藤広君
- 安藤大造君とその弟
- 太田村長高橋雅郎氏とアサヨ夫人
Ⅱ
- マックァーサーの呼び出しを待つ先生
- 二律背反
- 先生の口癖
- 光太郎の光太郎たるところ
- 僕と宮沢賢治だな
- 雨ニモマケズの碑
- 発見です大発見です
- 〝道程〟は七冊売れた
- 子供の名前
- 宮本百合子さん
- ある判事の餓死について
- 大きな手
- 詩は僕の安全瓣
- 仮象ということ
- マダムたみ子と色紙
- 純潔のうた
- 駿河重次郎さん
・高村先生のお話
- 春になつて
- 今日はうららかな
- 埴輪について
- 仏像について
- 能面について
- 茶について
- 宮沢賢治さんの印象
あとがき(この本の成り立ち)