1995年7月、草光舎から刊行された山尾三省(1938~2001)の第4詩集。編集は高梨修、題字は田中春苑、イラストは桜蒼夫。
私の三冊目の詩集、「新月」(くだかけ社刊)が出たのは、九一年の六月であったから、それ以来ちょうど四年ぶりに新しい詩集が出ることになる。
詩というものは、その時その場においてつかまえなければ永久に逃げ去るものであり、それかといって、つかまえようと意識していてもつかまえ得るものでもない。佛ということや神ということと同様に、詩もつねに世界に満ちているのだが、それに出遇うことは必ずしも容易なことではないし、出遇ったとしてもそれをつかまえて言葉に定着させることは、さらに容易なことではない。
この四年間に、どれだけ多くの詩が出遇われながら定着されることなく、永久に失われてしまったかを思うと、詩を業とも行ともする者として慙愧の念がわき立つ。それだけに、ここに定着し得たものを一冊にまとめることができた喜びは、深い。
この詩集の特徴は、これまで必然のものとは感じながら、ある意味で気ままな、不確定な光としてしか存在せず、従ってつかまえることのできなかった阿弥陀佛という存在が、永劫という言葉(名)の実体において、理性や知性においても納得され、その永劫の存在光においてわたしの全存在を確定せしめた、ということにある。
従って、永劫という言葉に興味を持たない読者にはつまらない詩集と映るかもしれないが、そうであるとしても、永劫の実質は、目前の樹木や草花、海や川、山や星、そして人に、それ以外には現れようもなく顕現しているのだから、目前の樹木や草花、海や川、山や星、そして人をそのままにカミとして歌った、一冊のアニミズム詩集として、これを読んでいただければ、また別の読み方もできようかと思う。
アニミズムと阿弥陀佛信仰は、一見すると大変異なった心性のようにも感じられるが、そのじつは同じものである。アニミズムは万物にカミが宿ると感受することに特徴があるが、そのカミとは、究極において永劫であるにほかならない。ひとつの山、ひとつの岩、一本の樹が永劫を示現している時、それらはカミとなるのであり、阿弥陀佛信仰もそれが生きた信仰であるならば、死後を待つまでもなく現在ただいまにおいて、永劫という存在光の内にあるからである。
この詩集は、草光舎の田中重光さんの呼びかけによって、生まれるきっかけを与えられた。九三年の初夏、田中さんが屋久島のわが家を訪ねてこられ、ちょうど奥岳にしゃくなげの花咲く季節であったので、ご一緒に散策したことを楽しく思い起こす。ご自分の出したい本を出すために、それまで勤められていた出版社を退職され、草光舎という、その名もゆかしい新たな事業を興された決断を讃える。
田中さんの出したい本の中に、私も加えていただいたことを感謝して、あとがきと致します。
(「あとがき」より)
目次
序 森の家から 二十四節気七十二候……
祈り
一部 立春まで
- 思佛 その一
- 思佛 その二
- 思佛 その三
- 新しい秩序 母に
- 水
- 不断光
二部 雨水まで
- 雨水 その一
- 雨水 その二
- 朝茶 その一
- 雨水 その三
- 雨水 その四
- 雨水 その五
- 白木蓮 その一
- 朝茶 その二
- 感想 その一
- 感想 その二
- 白木蓮 その二
- 雨水 その六
- 感想 その三
- 雨水節の終わりの日
三部 夏至まで
四部 小雪まで
あとがき