野の涯 秋山兼三詩集

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 1968年9月、紀元書房から刊行された秋山兼三(1941~)の第1詩集。著者は東京生まれ、刊行時の住所は杉並区西田町。第4回現代詩新人賞受賞作品。

 詩とは何かと考えることが無意味ではないにしても、書かれた作品が詩であるかないかということは、ほんとうはどうでもいいことである。むしろ私にとって問題なのは、〈書くとはどういうことか〉であるが、このことはいまだに自分自身にはっきりさせられないでいる。書くという行為も人間の労働行為の一種である以上、書かれた作品に作者自身が外化されているには違いないが、作者の何がどのように外化されるかということは、一般化していうことはできないように思う。外化論を抜きにして表現について考えることはできないけれども、ただ単に外化されるというだけでは、〈文は人なり〉と願望と自戒をこめて語られたことばとどれほどの違いがあるだろうか。
 梅本克己は「画家が一枚の絵をかくとき、その絵の中には画家の主体が外化されている。画家はそこで外に出された自分自身とむかいあう。むろんカンバスに絵具をぬってみても一向に自分が外化されず、カンバスの上に移し出された自分自身とむきあうことが出来ぬばあいもあるが、これは外化が成功しなかったからである。」(「人間論」増補改訂版一五〇ページ)と述べているが、これでは自己外化は技術もしくは才能の問題になってしまう。意図した表現に失敗するということはあっても、外化が成功しないということは原理的にありえないのではないだろうか。同氏はまた、

「以上が『自己疎外』ということについてのマルクスの基本的態度であり、そして現在のマルクス主義者もそのように理解している。それはまず、(1)自己対象化一般ということであり、つぎに、(2)この自己対象化が、あるばあいには人間の自己確認となりあるばあいには人間の自己喪失となる。(3)その理由は、自己対象化の土台としての現実の生活関係そのものの矛盾の中にもとめられねばならないということである。」(同上、一五四ページ)

 と述べているが、自己対象化とはどのような場合にも人間の自己確認としかなりえないのではないだろうか。自己対象化がある場合には人間の自己喪失になるのではなくて、私たちはしばしば、自己を対象化することによって自己外化された自己の中に自己喪失した自己を確認するにすぎない。私たちが自己確認できないという場合でも、そのような存在としての自己を確認しているのであって、その理由は、現実の生活関係そのものの矛盾の中で自己喪失していることにもとめられるのだと思う。
 しかし、書くとはどういうことか。さしあたっての私の結論は、書くことによってだけでは自分を超えることはできない、ということである。
 逆接的には人間の悲惨は、苦しみや悲しみを人間が意識化することができる、対象化することができることにもとめられるとも考えられるが、そのような能力を全くなくしてしまうことは、もう人間にはできない。私たちにできることは、それらの苦しみや悲しみを、決してそれらの絶えるときはないかもしれぬが、一つ一つ克服していこうと努力することだけである。
(「あとがき」より)

 

 

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あとがき
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