1993年9月、青蛾書房から刊行された原満三寿(1940~)の第2詩集。装幀は中山昇、装画は日和崎尊夫。著者は北海道夕張生まれ。
詩と詩の間に散文を挿入する手法は、金子光晴の『人間の悲劇』などにおいてもみられ、なんら目新しいものではありませんが、この詩集はすこし違います。というのは、詩から俳句に転じ、ふたたび詩にもどってきて詩と俳句の二足鞋を履くことになった私には、詩と詩の間に散文を置くという意識よりは、俳句でいう「前書き」を発展させて詩を繋いでいったらどうかという考えが最初にあったからです。しかし書き込んでいくうちに詩が主、前書きが従であるよりは、前書きそのもののほうが面白くなって、それならば前書きを主たる詩文としてはどうかというふうに変わってしまい、節操のないことおびただしいのです。
これを散文詩といったものか、物語詩、譚詩といったものか、あるいは詩友丈創平がネーミングしたように詩説となづけたものかはたいした問題ではないでしょう。要はこれらの作品が、この時代の寓話として、ひとつの言語表現として、成立しているかどうかということにきわまるはずだからです。
これらの作品にさきがけて詩界では、飯島耕一さんによる「定型詩論争」があり、火付け役と擬せられた私としてもなんらかの成果を出したい気持ちがなくもありませんでしたが、いつも考えていることと違う方にいってしまう性癖のしからしめる結果として、定型詩どころかまったく異質な方にいってしまったのは我ながら訝しいことではありました。
約二十年ぶりに詩にもどってきたという非才の事情はともかく、飯島さんがもっとも危惧した、現代詩が「あまりにもオジヤのような寝そべった詩が氾濫している」ということを警策としながら、私たちの生々しい日常を非日常世界に投影し、書き手も読む人も、面白く、悲しく、奇態な作品にできないかということを、パロディと懲りない宿酔いと格闘しながら推敲した作品たちではあります。
全体のテーマについては作者があれこれ解説すべきではなく賢明な読者の鑑賞にゆだねることですが、『かわたれの彼は誰』というタイトルにすべてが収斂されているとだけいっておきましょう。
作品の初出は、「序詩―その男は―」が『中庭』である他はすべて同人詩誌『騒』によりますが、それぞれ多少の修正をおこなっています。それは主に文体の一貫性に留意したためです。作品の構成は、発表順を原則としましたが、一部移動しました。
装幀についていえば、表紙、本文挿画とも、一昨年物故した世界的木口木版画家の日和崎尊夫さんの作品です。日和崎さんとは、谷佳紀、浅尾靖弘、猪鼻治男、山口蛙鬼、多賀芳子といった鬼才たちとやっていた句誌『ゴリラ』の表紙をお願いして以来のお付き合いで、その豪快な人柄とアトリエのあった土佐を訪れた思い出は、わが大事であり、この詩集によって、私の出版物には氏の作品を使うという氏との生前の約束が果たされることになりました。表紙のピエロは氏が最後の個展に出品した作品で氏の自画像ですが、木口木版に彩色したきわめて珍しい一品です。氏の作品がすばらしいので羊頭狗肉の感がまぬがれがたいのですが、まさにこの詩集のために遺してくれたような気持ちでいっぱいです。全体のデザインは、グラフィックデザイナーの中山昇さんです。本の仕事は初めてではないかと思いますが斬新な仕上がりで満足しています。
跋文を書いてくれた暮尾淳は、『騒』の編集者であり、私を詩に復帰させた教唆犯であり、酔友かつ山登り仲間でもあり、なにかにつけて共犯関係にあります。金子光晴研究、詩人としての氏の評価には多言を必要としないでしょうが、詩文の批評家としても毒と蜜をしこんだ怖い存在です。
最後に月並みになりますが、『騒』の同人たち、大勢の先輩詩人や文芸仲間に感謝の気持ちを呈します。
(「口上」より)
目次
序詩――その声は
- 逃げ水
- 穴
- 李(い)
- 自転車
- 樹亡
- グッドバイバイ
- エビス村
- 鬼止り
- たそがれ
『かわたれの彼は誰』かの原満三寿抄 暮尾 淳