斉唱 亀割潔句集

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 2014年9月、ふらんす堂から刊行された亀割潔(1965~)の第1句集。装幀は君嶋真理子。付録栞は千葉皓史「『全体』を聴く」。著者は長野県岡谷市生まれ、刊行時の住所は北区西ヶ原。

 

 このたび初めての句集『斉唱』を上梓することとなった。正直、思いもよらないことであった。それでも、遠い日の未熟な句作をも含めて、自身でもよくわからずにいた「私という名のついている何ものか」の形を、本というフォーマットに沿って確認するのはそのつらさも含めて面白い作業だった。一九九五年末から二〇一四年初頭までに詠んだものの中から二百八十八句を選んでいる。
 本句集に至るまでの過程で多くの方々に助けられ、影響され、励まされ、何より俳句の楽しみを身体の芯まで沁み込むほどに教えられてきた。師として、またかけがえのない盟友として導いてきてくれた和田耕三郎。「蘭」の故きくちつねこ師と当時の連衆の皆さん。そして今、自分の俳句を支えてくれている「OPUS」の仲間たち。さらに、和田耕三郎を通して遠く、しかし明瞭に力強く行く手を指し示してくれる野澤節子・大野林火という二人の作家。そのさらに向こうに広がる俳句の、詩の曠野。
 「斉唱」の語は、すべての句の背後に同時に響いているたくさんの声との唱和をも意図している(むろんここに記した人たちのものだけにとどまらない)。自分が声を発する時には必ず、これまで「私」をかたちづくってきたすべての人たちの声が同時に発せられているのだと思って、もしくは祈っている。父母がこの身を世に送り出してくれたことに、またその世に俳句というものが生きていたことに、あらためて感謝する。そうして今も生きている。
 ここにはまた二つの「震災」が遠く近く響いている。体験そのものは客観的に見ればとてもかすかなものではあるが、しかし「それがあった」という事実はこの私の内にも外にも揺るぎない。集中の作品のいくつかは、ただ幾重にも言葉を失っていた者の当時のちっぽけな有り様、後にやっとのことで掴み取られたその断片である。そして今は、困難の中に日々を送る人たちのことを忘れないという無力でささやかな決意を毎日繰り返す。それはひとつの現実ではありながら、だからこそしかしここに俳句としてあるものの読みをいかなる特定の方向に導くものでもない。
(「あとがき」より)

 

目次

序句 和田耕三郎

あとがき


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