風景 橋閒石句集

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 1963年9月、白燕発行所から刊行された橋閒石(1903~1992)の第4句集。著者は石川県生まれ、刊行時の住所は神戸市生田区海岸通。

 

 「俳句史大要」は別として、「雪」(昭和二十六年)「朱明」(昭和二十九年)「無刻」(昭和三十二年)につづく第四句集が「風景」である。もっとも「雪」は、俳句のほかに連句と想をふくみ、「朱明」と「無刻」には随筆も収められているから、俳句だけのものとしては「風景」が最初である。
 四十五年も昔のことになると、たいていの記憶はうすれてしまうものだが、俳句との因縁は、別の理由もあって、妙にはっきりと頭に残っている。そのころの私は、厄介な病気につぎつぎ襲われて、生きのびられるとは、誰ひとり思わなかった。さいわいまだ親がかりの少年だったし、変におもいつめない性質だったから、なんとなく本など読んで寝ていた。父は公立図書館の蔵書目録を手にいれて、私の望むものを、とりかえては借出してきてくれた。評釈を手はじめに、いろいろな俳書をあさっているうちに作りたくもなる、といったふうだったが、見てもらう人を求めようともしない、まったくの我流だった。しかし地方の新聞や、東京から出ていた雑誌の俳句欄などに応募して、たびたび入賞したりもした。
 学業と人生へ復帰するのに四、五年かかった。復帰といったところで、人並みに動けるようになったのは、ずっと後年、奉職してからのことである。したがって、前後十年あまりというもの、私にはいわゆる青春がなかった。いくどとなく希望をうしないかけ、生きるだけに喘ぎながら、不規則きわまる就学の径路を、それでもどうにか切抜けてこられたのは、いかに鷹揚な時世だったとはいえ、ただもう奇跡の一語につきるといってよかろう。
 そのあいだ、俳句のことを忘れていたわけではない。しかしそうした集まりに、もとめて近づく気もなかったし、すっかり孤独癖がしみついていた私は、どの俳誌にもそれぞれ慊たらぬものを感じて飛びこむことができなかった。一種のつむじ曲りというものだろうか。そしてこの傾向は、どうやら生来の、癒えることのない心の病いらしい。
 そんな私が、俳諧に沈潜していったのも、思えば不思議なめぐりあわせである。神戸に勤めを転じてまもなく、ふと誘われるままにさして気乗りもしない足をむけた先が、現在義仲寺の無名庵十八世をついでいる寺崎方堂宗匠であった。氏は、そのころ兵庫で蘿月吟社を主宰し、旧派では全国的に高名な存在だったが、私は氏を通して、連句実作のきわめて貴重な体験をつんだ。終戦にちかい頃までは、文字どおり俳諧師としての時期である。関東から九州にかけてこの伝統の世界に定評のある人々と、かずかずの歌仙その他を巻きもしたし、しかるべき際には、方堂氏が一座の宗匠、私が執筆として、たびたび俳諧式を張行した。いまは須磨浦公園になっている山腹に、「蝸牛」の句碑がある。あれは方堂氏の筆になるもので、私たちが建てた事実は、台座のなかに埋めた銅板の文字が、立証するであろう。実作を裏づけにした上での俳文学の研究は、学問的にも芸術的にも、私にとって量りしれない収穫をもたらした。そしてその間に体得したものが、内外の文学芸術の鑑賞や批判はもとよりさらに広い思念の場においても、よかれあしかれ、ある種のパターンをうみだしていることは否定できない。
 人はしばしば、私を孤高と評した。高はまったく当らないが、孤はみずから招いた罪である。そうした性格の私が、いささかでも世に立ちまじるようになったのは、昭和二十四年五月、主宰として「白燕」を発刊した時からであろう。誌友は前後数百人におよび、いくつかの支部を設けもした。そのころの活動の一端は、百号に達した三十二年八月の記念号に、略年譜として記載したから、ここではすべてを省略する。ひところの私は、酒気の絶えることがなく、阪神間に住む文人、画家、彫刻家、その他さまざまな人たちとの交わりをたのしみ、求められるままに、新聞、ラジオを通して、いくたびとなく随想や座談を発表した。二十七年十一月、門下をひきつれて須磨寺芭蕉忌をいとなみ、私が宗匠、佐野千遊を執筆として俳諧式を張行し、その実況録音をみずから企画指導して、旧ラジオ神戸から放送したことなども、懐かしくまた意義ふかい思い出である。
 私自身の境地の変遷は、しだいに少数の者のみの結束をまねき、三十二年一月「白燕」を主宰誌から同人誌の形式に改めたのは、かねてからの私の理念を、実現する意味からでもあった。革新に誠実な俳誌とのあいだに、交わりの環が急速に広がりだしたのは、その頃からである。あらたに永田耕衣、榎本冬一郎、金子兜太高柳重信、堀葦男、島津亮、鈴木六林男、赤尾兜子らの諸氏をはじめとする多くの畏友、ならびにその周辺にむらがる人々の情熱は、ともすればサロン的といわれてきた私に、しばらくも渋滞をゆるさなかった。その恩沢はきわめて大きい。
 私はあながち、還暦というものに特殊の意味を感じているわけではない。しかし、この機会を口実にして、英文学に関する一冊の研究書と一冊の句集を刊行し、さらにまた、登り残していた郷土の白山に遊ぶことで、三重奏を編曲したいとひそかに願った。そしてこの企ては、いずれも小粒ながら一応の実を結んだのである。それもすべては、私をとりまく善意のたまもの、――この句集にしても坂本巽、佐野千遊、和田悟朗をはじめ、多くの人たちの支えがなかったら、実現しなかったであろう。
 私はまさにいま、人生のいわば「ハルシオンの季節」に入ろうとして、明るい清水の無限に湧きでる思いがする。
(「あとがき」より)

 


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