野火詩集1 高田敏子/野火の会編

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 1968年12月、黄土社から刊行された詩誌「野火の会」のアンソロジー。装幀は若山憲

 

・『野火詩集』に祝福を 伊藤桂一

 『野火詩集』がまとめられた。こういう形の詩集は、たぶんほかには例がないだろう。めずらしく、かつ楽しく、そしてたいへんに有意義な企画だと思う。
 詩のこころを支えとして日日の生活を営もう――というのは、高田敏子さんの主宰する『野火』という雑誌のモットーである。素朴で、つつましく、しかも明るく元気な青年たちや、家庭の主婦やお母さん方のための、互いに隔てのない、親睦感に満ちた雑誌、それが『野火』であった。そうしてみんなで、詩の勉強をつづけてきたわけである。石の上にも三年、というが、とにかく『野火』も三年目になり、こうして『野火詩集』が発刊されるのは、まことに当然のなりゆきである。私もまたこの一巻の出版に、心からの祝福をおくりたい。
 『野火』には、学生、会社員から、社会的には指導的立場にある人や神父さんまで、実にさまざまな職業、立場の人が集まったが、例会に集まると、だれもが一様に、詩の研究生のように、まじめに熱心に討議した。高田さんはそうした人々に対する、実にゆきとどいた相談役だったが、高田さんの負担も大きいので、安西均、鈴木亭の両君や、また少々は私も手助けみたいなことをさせてもらった。赤間太郎君は雑誌の編集長、会の指導役としてよく働いた。こうした、損得をはなれた美しい集いのなかで、野火会員の勉強の成果が、ともかく一本にまとめられるところまで来たわけである。
 むろん私もこの一巻の詩的水準を世に誇ろう、認めてもらおう、などというつもりで、この文章を書いているつもりはない。私はただ、詩を書く、という営みを通して、自身の生活や人間性をよりよくみがいてきた人たちの、躍動している心を知ってもらいたいし、それがどんなに大切であるかを、より多くの人に伝えるべく、この一巻が役立ってほしいと思うのである。
 私は高田さんに『野火』の発刊をすすめたとき、必ずいい雑誌になると信じたが、その結果は予想以上によい収穫を生みつつある。もちろん『野火』の周辺には、多くの先輩詩人諸氏が、無償の寄稿をつづけて下さったり、画家は表紙やカットを提供して下さったり、またマスコミ関係からも、さまざまな好意を受けている。これもつまりは『野火』のもつ現代的意義に対する、評価であり支持であるというべきだろう。
 『野火詩集』は、こうした、あたたかな期待のなかから生れたわけである。別にだれもが専門の詩人になるわけではないけれども、さきざき詩の効用を証明してゆくためには、忠実にその努力を傾けてゆかねばならないと思う。そして、さらにみのりの多い『野火詩集』を生んで行かなければならない。充実した、りっぱな『野火詩集』の発刊に際し、関係者の一員として、私は重ねて喜びの情をお伝えし、既知未知の会員諸氏の御健闘を祈る、またこの一巻を手にせられた読者諸氏に得るところの多きを願うものである。

 

・野火詩集発行について 高田敏子

 『野火』が創刊されて満三年、『野火詩集』をまとめることができました。三年という年月は、わずか短かい年月にすぎませんけれど、『野火』に集まる人たちにとっては、詩を書くことを新鮮なよろこびとしてうけとめて、生活そのものをも張りあいのあるものにしてきた、貴重な年月でありました。
 詩が好きだからといっても、詩を書く素質があるかどうかはわからない。と、そのような言葉をききます。たしかに、好きというだけで、詩の上手、よい詩が生みだせるとは思えません。でも、書きたいという心を持つかぎり、詩はその人にとって、呼吸のような、大切な役目を果すことはたしかでしょう。
 「いままで一度も、詩を書いたことはありません。でも私は書きたいのです。私の毎日、私の生き方、さまざまな思い、考えを詩にしてゆきたいのです」
 『野火』は、このような方たちの集りから出発しました。上手、下手は別にして、まず書いてゆくことからはじめられました。
 会員の多くは、主婦であり、お母さんであり、お母さんの役目も終った年配の方もいられます。中学生から、高校、大学生、お勤めの青年や娘さんもいられます。そしてみんなが、初歩、初々しい気持で、恥しい思いを抱きながら、作品をよせあっているところに、『野火』のよさがあるのだと私は思っています。そしてこの三年間の歩みで、詩について学び、生きることについても、心を開きあって話しあってきました。
 『野火詩集』は、そうした純粋な歩みをたしかめるためにまとめました。みなさんに読んでいただくというより、私たち仲間が、これからもいっそう固く結ばれて、励ましあってゆくためにまとめたともいえるでしょう。
 伊藤桂一氏、安西均氏、鈴木亨氏をはじめ、創刊以来お世話になっている『野火』に玉稿をいただき、ご好意、ご指導をいただいた、先輩先生方にお礼を申し上げたい心もこめられています。なお、この『野火詩集』第一号には、昨年末までに申し込みをされた方たちの作品が集められています。ほんとうは今春発行の予定でしたが思わぬ時間がかかってしまいました。
 それは何事も能率的に出来ない私の責任によることですが、送られた原稿と、創刊号からの『野火』の作品とをよみくらべて選び、検討していたためでもありました。
 これからは年鑑というかたちで、第二号、第三号と、つづけてゆく考えです。この号に参加なさらなかった方々も、次号はどうぞ遠慮なさらないで、参加していただきたく存じます。
 伊藤桂一氏にあたたかなお言葉をいただきました。装幀は毎号の表紙を描いて下さる若山憲氏にお忙しいなかをお願いしました。ありがとう存じます。
堀口印刷の社長、堀口太平氏も『山の樹』の同人であり、特別のご好意をいただき感謝しています。

 

・野火のひとびと 赤間太郎

 ここで、最も望ましいのは、「野火詩集」の各作者について、人と生活の素描を記すことだろう。発足以来三年間、北海道から九州まで、会員を訪問しては「野火」誌上に発表してきたが、会員総数からみると、ひと握りの人に会ったにすぎない。
 そこで、各作者の素描は他日に譲ることにして、紙数の許す限り、ごく一部の人を思いつくままにピック・アップし、簡単な紹介を列記することにした。いくらかでも、「野火のひとびと」と作品の理解の足しになれば幸いです。

浅野章子 かっ幅もよく、頼まれればイヤといえない浜っ子気質で、御大と呼ばれている。女学生時代、浜松の軍需工場に勤労動員中、米軍の空襲で大半の友だちを失った。この体験を二十二年目に詩にすることで、詩作への手がかりをつかんだ。長男(大学生)ほか三児の母。

飯野晃次 福岡に生まれ、金沢で育ち、室蘭で青春放浪した。戦後は、東京で労組運動に専念し、現在「生長の家」の仕事をしている。中学の時「文章倶楽部」に佳作入選して以来、詩歴は長い。

今井洋子 大阪阿倍野にある、美章園という駅前で、小さな一品料理屋を妹さんと経営している。自分のみじめさを詩にしても、そこにユーモアがみられるのは、浪花っ子のド根性だろう。

太田忠之 東北大学院学生。専門は、素粒子理論。現在は、東大原子核研究所で、博士論文のため実験をしている。詩作の動機を「自分の中に閉じこもる性格から脱出するため、また生活・思想上いろいろな壁にぶっかる時、書くことは、自分にとって救いだから」と分析してみせた。

近江靖子 この十月、舟崎克彦と結婚。会員同志の結婚第一号となった。好きなものは、パイナップル(但しナマ)かに、アスパラガス、桃、幾何学的に走っていくペンギンの姿、嫌いなのは、哲学、代数、くりにピーナッツ。童謡部門の作詞で、レコード大賞をとった。なんの苦労もしらないお嬢さん。

大保静子 戦争で夫を失い、六人の子供をつれて、北鮮の野山に隠れ、辛苦の末、敗戦の日本に帰国した。「よわい六十に近く、まさに六十の手習いでおはずかしく存じますが、詩を愛するあまり、勇気をだしてペンをとりました」

岡本修已 昭和十七年一月十五日、鳥取県米子市に生まれた。独身。自作のフォークソングがあるレコードのB面にプレスされた。虫歯のないことを誇りとする、放送ライター。

小島敦子 高卒後、二年半勤めた職場を去り、日に三度しかバスの通わない海辺の町の保育園の保母となった。心にもない笑いをつくり、数字とにらめっこする毎日が耐えられなかった。生きた言葉で話し、生きた笑いを見せあえる、自分が本当に愛することのできる仕事がほしかった。しかし、友人たちは、だれも理解できなかった。

川又紀代 二高卒後五年勤めた会社を、この四月突然やめて、ポンコツ車を買い、日本一周する、と張りきっている。

窪田寿子 どうしても婦人警官になりたくて、合格した大学をふって、警視庁に勤めた。一年間待った甲斐あって、目的を達し、青少年の補導に活躍している。ただし、だれもが婦警であることを信じないほど、すずしく、可憐である。

四宮明美 新劇女優のひよっ子。三浦半島の漁港で育ったせいか、サカナをテーマにした作品に独特のものがある。野火叢書として、詩集「魚の町」を刊行した。

滝沢耕平 十年勤続模範店員として、ソバ屋組合から表彰された。サボル要領は知っていても、どうしてもできない良心の人である。新潟の雪の夜道を進学をあきらめ、裸行李一つをもって泣きながら上京した。自分の店をもつことを念願として、出前に汗水たらしている。

西尾政恵 生活改良普及員として、千八百戸の農家を対象に、衣食住にわたる生活技術の普及や家庭管理の指導に、軽オートバイで飛び回っている。宮沢賢治を尊敬し、新婚旅行は「岩手」と決めているが、まだ、新夫はみつかっていない。

野間文代 事務員。家は爆心地(長崎)に近く、その日たまたま買いだしに行ったお母さんにおんぶしていたため、無事だった。家にいた祖母と姉は、原爆にやられた。次の日、熱線の残る焼けあとにたどりついたが、家はあと方もなく、骨一つ拾えなかった。

八窪清 上智大学神学部を昨年卒業した、若い神父。信者の家庭に生まれ、幼い日から、神父になるのが夢だった。が、夢が現実となるためには、俗人の知らない悩みがあった。現在、高松で「野火」を片手に、布教につとめている。

松本仁子 教師(教員生活十七年)。日本海に突きでた小さな岬。日本全図に地名さえも、のせてもらえぬ小さな漁村小泊村下前、その小学校へ赴任して四年目、特殊学級(遅進児)を教えて二年目である。「だんが」という、海から運んだ石ころ階段の道を登り下りするせいか、今まで何度も流産したが、今年七月、無事長女を得た。

作品を書かない「野火のひとびと」もいることを、つけ加えておきたい。たとえば、最初から入会している鈴木清明さん(横浜)は、ある精油会社に勤務する若い化学者。根っからの虫好きで、チョウと象虫については専門家はだしである。こん虫のエッセイを「野火」誌上に連載した。

「野火詩集」は、詩は書かないが詩を愛することでは人一倍という「ひとびと」の熱意によっても、深く支えられている。「終りに、もし「野火の会」あるいは「野火のひとびと」とはどういうものか、と質問されたなら、えびの地震で被害をうけた田中孝江さんの手紙の一部を引用して、その解答にしたいと思う。

「野火の皆様からこんなにも沢山の優しい励ましのお便りを頂こうとは、正直、夢にも思っていませんでした。その上、数々の真心のこもった贈りものまで頂いて、私はもうどうしていいか分らないくらいでした。中略。これでもかこれでもかというように、波状的に来るお見舞状が一か月も続いた時、野火の会のほんとうの趣旨を身をもって知らされました」

 

 

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