1972年4月、ブロンズ社から復刊された高田渡(1949~2005)の第1詩集。
あとわずかでボクの二十(はたち)も終ろうとしている。これらの詩は十八~二十までの二年間の記録である。父も十九~二十の時に詩を書いていた。そして、それらの作品は四十年以上も過て初めてうすっぺらな一冊の詩集となったのである。
「詭妄性詩集――高田豊」
今、わが家にはこの一冊のカビ臭い詩集だけが残っている。
話は変わるが、木島始著「詩・少年・アメリカ」という本の中に『小熊秀雄論』というのがあるが、その始めに書かれているコトバは、
「詩(シ)は刺(シ)である」
である。
「詩は身体の一部や心の一部を撫でてとおるだけの薬味ではない。……」ボクの詩はこれらには程遠いようである。毎度毎度お世話になっている今江祥智大兄ィ流で言うならば、ボクのこれらの詩は、
「フン!ビビンチョ、オタンコナスのコンコンチキの青二才、豆腐の角に頭ぶつけてオッチンジマー……ってんだ!」である。
「個人的理由――高田渡詩集」は「詩(シ)は刺(シ)である」にはかなり遠いものであるが、ボクはボクなりに、
「詩(シ)は刺(シ)である」
の序、序、序、序、序詩となる事を願っている。これ又、非常に「個人的、身勝手な」こじつけでありました。ようで。
(「あとがき1」より
僕の詩集“個人的理由”は、僕の奥さんにあてた詩集なのです。ブロンズ社から、2年以上も前に自費出版したこの詩集を出したいという話があった時、奥さんは「今さらちょっと恥ずかしい気がする……。」と言っていました。いつまで経っても“個人的理由”から一向に抜け出せないのでいささかあせっているのです。ですが“個人的理由”は個人的理由とし、一つまとめてみようと二年程前にまとめてみたわけなのです。それがどうしたわけか、ブロンズ社からお声がかかった事、真に不思議でならないのです。僕自身、もう“個人的理由”を忘れかけていたのです。
(「あとがき2」より)
目次
- ボクの詩
- 個人的理由
- 約束
- レモン
- 陽が沈まぬうちに
- 給料日
- 小さな歯車
- シャンソン
- 春、真最中
- 汽車が田舎を通るその時
- ボロボロ
- 道くさ
- 喫茶店
- 日曜日
- 友達
- いい娘
- 七月
- 煙草
- 来年の話
- 家庭
- 逃げ水
- 林の向こう
- 愛・ラブ
- 最終電車
- オール・ナイト
- 今一番こまる事
- 詩人の隣りに住む男の寝言 その一
- ドサ廻り
- 給料日
- 詩人
- 無題
- 午前三時
- どなたかメシを
- 雨ふり
- 十字路
- 酷白
- 夕暮れ
- 合理化
- コーヒーブルース
- スタイリスト
- 自由
- イノダを語る
- 家出
- 朝
- 京都
- 老人
- 傘
- 結婚
- 通過
- 眼がさめたら
- 歯車
- はしご
- ランチ
- 宵っ張り
- まちぼうけ
- 街角
- 楽譜・シャンソン
- 楽譜・春最中
- 楽譜・汽車が田舎を通るその時
- 楽譜・日曜日
- 楽譜・ボロボロ
- 楽譜・コーヒーブルース
あとがき