1965年8月、思潮社から刊行された本多利通(1932~1989)の詩集。
岩をそこに置くと、光があたって厳粛なかげりができる。岩はその沈黙のかげりによって宇宙に対立し、その存在を主張しているかに見える。ぼくは自分の詩のふかみに、たえずその岩のようなものを沈めていたいと考えていたが、或はぼくの岩は野の四十人の盗賊によって遙かにはこび去られたまま、むなしい形骸をあとに残しているだけかも知れない。ぼくは見ることによって事物のなかに投身した。すなわち形象の意味を探求しようとした。けれども、これはあくまでも人間的なものの優位を事物に対して僭称することであって、物を物自体の存在からはみださせることになり、物の姿をかえって貧しくしたことになるかも知れない。詩の底辺に岩を沈める、ということとは甚だ矛盾したような、もうひとつのこの願望がぼくに詩を書かせた。
敗戦の日、すべての事物の意味が剥奪され、中学一年生であったぼくさえ巨大なうつろに支配された日、はじめて光は創世紀のように新鮮にかがやき、破壊されなかった畦道や樹木や岩や鉄道が人間をしりぞけて、安堵したように焼跡のむこうに在ったのを記憶している。それにもかかわらず、さらに事物を侵犯しようとするぼくの認識と想像力の作業は、いかにおろかなぼくの心臓のいたみを露呈していることだろうか。
「真の詩は認識によって鋭く、憧憬によって苦くなければならない」とは異国の詩人があるときつぶやいたものであるらしい。この言葉を深くぼくの胸にも彫りつけて置きたい。
(「あとがき」より)
目次
- 蜻蛉
- ちぎれ雲
- もしも沈黙が
- 孟宗竹
- ハンマー投げ
- 冬 一、
- 二、
- 蔭
- 樹木
- 樵夫
- 見えない
- アルタミラの牛
- 短詩抄 鐘
- 竹蜻蛉
- 颱風
- 山上湖
- 隠沼
- 水死
- 野火 1 川
- 2 国境
- 3 祝祭
- 4 火傷
- 冬
- 鳶
- 焚火
- 焼跡にて
- 波
- 巨大な皿
- けれどもぼくが
あとがき