1996年2月、みもざ書房から刊行された井野口慧子(1944~2019)のエッセイ集。カバー装画は三岸節子。著者は広島県生まれ、刊行時の住所は東広島市。
十年ほど前だろうか、テレビドラマの中に、女優の樹木希林が「夕空晴れて秋風吹き月影落ちて鈴虫鳴く…」と独り言のようにぼそぼそと歌う場面があった。あらすじはよく覚えていないのだが、愛する者を亡くした後の、誰にぶつけていいのかわからない深い悲しみとあきらめの入り交じった、でもどこかその感情をふっきっていくような浄化される響きがあった。
私はいつの頃からか、ふとこの歌を口ずさむことがあったので、テレビを見ていて、樹木希林の演技もさすがだが、こんな時にこの歌を選んだ脚本家か、プロデューサーにうーんとうなってしまった。娘を亡くして丸十四年が過ぎてしまったが、この体験の後には、思いがけないことばかり起こった。特に人との出会いには、どんな言葉で表現していいのかわからないような、静かに渡ってくるものの気配と言っていいのだろうか、そんな目に見えないものを感じるようになった。そして、その中に娘の存在を、はっきりと知らされるようになり、今ではそれが自分の生そのもののように思えてしまう。
「夕空晴れて」はスコットランド民謡だが、大和田建樹という作詞家の日本語が素晴らしい。
二番の「すみゆく水に 秋萩たれ 玉なす露はすすきにみつ おもえば似たり 故郷の野辺 ああわが兄弟 たれと遊ぶ」の”はらから”を、私はいつのまにか娘だと思い、こちらもあちらもよく似ていて、娘もきっと今頃あちらの世界で誰かと遊んでいるにちがいないといった思いで口ずさんでいるのである。
ずいぶん長い期間に新聞や雑誌、同人誌などに書いたものをまとめた。どこかで共感していただければ嬉しい。また初めてのエッセイ集のカバーに、長い間想い続けてきた画家、三岸節子さんの版画を使わせていただいたことは、望外の喜びである。
(「あとがき」より)
目次
- ひとつの音に世界を聴く
- 陽二誕生
- クローバー
- かいがらは、うみのおと
- 赤とんぼ
- ガラスの動物園
- もぎたての林檎
- 絵本・ことば・暮らし
- ヒロシマという名の少年
- 沖縄
- ブールデルの果実
- チョコレート
- イエデ タベルゴハン
- 三次・浅野堤に寄せて
- かがり火のように
- オトシブミ
- 物療室
- 子どもと共に
- リル
- 桜が丘保養園一日園長体験記
- ことばはうつくしい
- 「白い刻」に思う
- キラリ光る比喩
- こわれたままでいいのだった
- 風の魂のうたナイ 岩田英憲のパンの笛について
- ちがった自分を探してみませんか
- 命の輝きを染める人
- ニコラ・ド・スタール展を見て
- 「なにか厖大なものが……」 辻征夫の詩
- 「杉本春生全集」刊行によせて
- 映画「ふたり」を見る
- 水びたしのベッド キーファー展から
- ボーヴォワールのマニキュア
- 砂漠のバラ
- 子供を失うということ
あとがき