船のない港 桂英澄

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 1962年2月、審美社から刊行された桂英澄の長編小説。装幀は姉の桂ユキ子。

 

 私はこの小説を京都の療養所で書いた。昭和二十七年のことだから、もう十年近く経ってしまった。私がやく三年を過したその小さな療養所は、苔寺にちかい山上の静謐な環境にあったが、当時そこに入っていた患者たちは、なんらかの意味で戦争犠牲者ばかりだった。私自身も、文字通り尾羽打ち枯らした状態でへたりこんだのである。
 終戦から発病までの四年間、私は大阪の三井ビルに事務所を持ち、ささやかな商事会社を経営して暮したが、その間に触れた中小企業の世界が、療養所の経験とダブって、病床の私にしきりによみがえってきた。世の中には、なんという恵まれない人たちが多いのだろう、という想いが、全く共通して、私の心を貫いた。
 約一年間の絶対安静の期間、ショパンとモジリアニの芸術が私の心をふるわせ、ユートピアの夢と地上の悲惨との奇妙な錯綜が、個室に寝たっきりの私の毎日の幻想だった。
 この小説には、私のそういう感慨と祈りが託してある。
 療養所での最後の年、体力はかなり恢復していたが、毎日少しずつ書き進め、半歳ほどかかって書きあげた。
 昭和二十七年の暮に上京したが、原稿はそのまま長くほってあった。この小説については、その後、今官一先生がたいへん心配して下さり、斯波四郎さんの雑誌「立像」に昭和三十二年以来連載した。
(「あとがき」より)


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