北信濃の歌 津村信夫の思い出 津村昌子

f:id:bookface:20200311144225j:plain

 1987年2月、花神社から刊行された津村昌子による津村信夫の回想記。

 

 歳月の流れは早く、私ももう七十余歳。ふと気付くと、信夫の人生の倍も生きたことになります。夫なきあとの人生は、一瞬の夢の間のようにはかない気もしますが、ひとつひとたどれば、たくさんの思い出が交錯し、私にとってはやはり捨てがたい大切な日々でした。
 信夫が亡くなった当座は、茫然自失の毎日で、神経衰弱になり、二度も入退院をくり返すしまつでした。どうやら健康をとり戻したのは、翌昭和二十年春になってからのことです。戦争末期の空襲で東京の兄たちも、神戸の母も相ついで焼け出され、鎌倉に移ってきたことも私には力強い支えでした。そして終戦。それにつづく世の中の激しい変動。もう私事でメソメソしているわけにはいきません。食べるため、娘を育てるため、そして信夫の分までが、庭を守るために懸命に生き、しだいに私も変っていきました。
 でも、女手ひとつで子どもを育てることはとてもむずかしいことです。幼ないころの初枝はひどく病弱で、就学前に一年ほど肋膜炎を患い、小学校に入ってからもよく扁桃腺をはらしたり、微熱が続いたりで、ハラハラさせられました。疫痢で死にかけたこともあります。いまのように医療機関や薬に恵まれていなかったあの時代に、病む子をかかえた片親の身の不安はたいへん深刻で、信夫を失った絶望感にまた襲われるのではないかと、それはもう恐怖にも似た思いでした。それだけに、初枝が十歳の折の盲腸炎の手術を境にすっかり元気な体質になったときには、真にひと安心しました。戦後の生活で一番の課題は、初枝の養育でしたが、同時に経済問題にも悩まされました。津村の家は、戦後の財産整理で大きな打撃を受け、私の手元には信夫名義の家のほか何も残りませんでした。が、働こうにも幼ない娘や、津村家の嫁という立場が邪魔をします。しかたなく、和裁の仕立てや、部屋の間貸し、あるいは義兄からの援助によって、何とかしのいでいました。けれど義兄も、昔の体面を保ちたがる病母をかかえて大変でしたから、そう迷惑はかけられません。
 もっとも苦しかったのは、初枝の中学・高校のころでした。月謝を差引いた残額で、どうして暮そうかと悩んだものです。そんな状態から何とか脱しようと思案し、家の裏に離れを造って人に貸すことにしました。そのために長野の兄が少しお金をくれ、市役所からも貸りましたが、残りの費用の捻出に奔走していたところ、妹の主人が「困っているなら、役立てて下さい」といって、すすんで貸してくれたときには、涙がこぼれました。苦しい生活の中で、さまざまなことを味わいましたが、暖かい心に接した際のよろこびはひとしおです。
 初枝にも物質的にきゅうくつな思いをさせたとはいえ、心まで貧しくなって欲しくないと願っていましたので、大学への進学を言い出したときも、ためらいなく許しました。初枝は私に何の心配もかけず、大学を卒え、就職、結婚と順調な道を歩み、いまは大学生と中学生との二人の娘の親になっています。
 ひとり娘を嫁に出した折、「寂しくなるでしょうに」と同情して下さる方もありました。しかし、私はホッとしました、やっと肩の荷をおろし、信夫に申し訳が立った思いで――。それからは心のどかにすごしています。娘夫婦は孫たちと一緒に東京で暮すように言ってくれますが、私には北鎌倉の山での暮しがもっとも性に合っていて、独り住まいも寂しいと思ったことはなく、離れられません。
 それに娘が嫁いだころから、信夫の本の出版や、文学碑建立などの話をいただくようになり、以来、私は改めて信夫と向き合ってすごしてきました。不思議ですね、子育てに夢中の時分には、こういうことはなかったのに。世の中が平和になったせいでしょうか。私にはどこかで信夫が見守ってくれているような気がします。そして、信夫とすごした十年の日々の思い出を、書いておきたいと思うようになりました。
半世紀も昔のことゆえ、忘れてしまったことも多々あります。そこで、現存する信夫の手紙に頼りながら、書いてみようと思い立ったのです。とはいえ、大切に保存してきたつもりでも、やはりかなり紛失しています。なお、内容が重複しているものは省かねばなりません。そうした障害をしのぎつつ、ともかく少しずつ綴っていき、四ヶ月ほどで一応まとまりました。そして「形見分けのつもりで…」と思いながら、その勇気もなく一年ほど寝かせておきました。
 でも、気になって、どうしたものかというご相談をどなたか信頼できる方に、と案じ、思いきって鈴木亨先生に見ていただくことにしました。お忙しい先生をわずらわすのは恐縮なのですが、先生は日ごろ信夫のことを気にかけてくださっていて、私には一番安心して頼れる方なのです。その鈴木先生が鎌倉までいらして原稿を一読され、本にしましょうよと言ってくださったときは、胸をなでおろしました。
そうして先生のご尽力で、このように出版されることになったのです。先生は詳しい注や年譜を執筆してくださいましたし、先生が教えていらっしゃる跡見女子大の菅野智美・近藤利恵さんのお二人を始めとする学生さんたちは、浄書・校正にたいへんお骨折りいただきました。
(「あとがき/津村昌子」より)

 

 

 目次

  • Ⅰ 昭和九年九月~十二月
  • <書簡>一~一六
  • <詩>若い旅で/林檎園/林檎の木
  • <注>
  • Ⅱ 昭和十年
  • <書簡>一七~四六
  • <詩>晴夜/雪のやうに/ある雲に寄せて/落葉松/千曲川/往生寺/長野/善光寺平/戸隠
  • <註>
  • Ⅲ 昭和十一年~十三年
  • <書簡>四七~六二
  • <詩>大倉村の手紙/炉/戸隠姫/戸隠びと/緑葉/早春
  • <注>
  • Ⅳ 昭和十四年~十六年
  • <書簡〉六三~七五
  • <詩>月夜/父/冬の夜道
  • <注>
  • Ⅴ 昭和十七年~十九年六月
  • <書簡>七六~八〇
  • <詩>早春/鳩
  • <注>

津村信夫年譜
あとがき 津村昌子
お手伝いの記 鈴木亨


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索