1993年12月、宝文館出版から刊行された鈴木俊の刺繍。装画はヨアヒム・リンゲルナッツ。
このまえの詩集が一九八二年でしたから、今度の詩集との間に十年以上も間隔をあけてしまったことになります。詩人を志す者としてこれでは話にならないとたいへん恥ずかしく思います。しかしこの十年間、安閑として過ごしてきたわけではありません。
この間に私は村野四郎論「闇の深さについて――村野四郎とノイエザハリヒカイト」を出し、併せてヨアヒム・リンゲルナッツ「体操詩集」を全篇初めて訳しました。その後も「画家リンゲルナッツ」「現代ドイツ詩集」等ドイツ詩の翻訳紹介に時間を費してきました。私の訳詩がお役に立てばこんな嬉しいことはございませんが、私自身としては、好きで読んでいる外国の詩人達が詩作の上でどんな作用を及ぼすかを見きわめるところに狙いがありました。もっと具体的に例を挙げれば、村野四郎研究の延長線上で、新即物主義なる呼称でくくられる詩人達、ブレヒトやケストナーやリンゲルナッツの作品に直(じか)にひたることによって、実作者としての私が彼らから何を得ることができるかの課題追究の十年間だったと云えましょう。この試みは、私自身の詩の方向をさぐる上で無駄ではなかったと思っています。
終生新即物主義を標榜した村野四郎さんは、沢山のすぐれた詩を残しました。しかし彼の詩を新即物主義の所産と云えるかどうか。彼の詩はむしろリルケやハイデガーの哲学に負う所が大きいように思います。
板倉鞆音さんは、リンゲルナッツの紹介者として名訳をたくさん残しました。しかし謹厳実直な板倉さんは、リンゲルナッツの代表作「クッテルダッデルドゥ」にはついに一指も触れようとはしませんでした。
駄洒落や軽口、卑猥なジョーク……そうした下世話な材料はとりも直さず新即物主義詩人達の武器だったわけですが、村野さんや板倉さんのお人柄とはおよそ縁遠いものだったと云えるのかも知れません。むしろ気質的には、金子光晴さんや山之口漠さんなんかの方が近いように感じます。しかしこの問題には二人が生きて活躍した時代環境や、日本の読者の好みというような重要な側面が控えているので軽々しく結論を出すつもりはありません。いずれエッセーの上でまとめてみたいと考えています。
とつおいつ思案の挙句の二股膏薬、弥次郎兵衛のようにふらつきながら、あっという間に一昔、という次第。村野論がきっかけで、土橋治重さんの「風」に加えて貰ったことはありがたいしあわせでした。土橋さんご自身が現代詩で数少ないユーモア詩の開拓者でしたから。
さて、少々口はばったい物言いをお許し願うなら、このたびの詩集は、かような次第で、私なりの新即物主義の実験と言えようかと存じます。その意図が成功しているかどうかは読者諸兄姉のご判断にゆだねるしかありません。なぜ、いつまでも新即物主義に拘泥するのか、それもこの際は私のつたない作品群からご賢察いただかなければならぬものと存じます。ご一読叱正をたまわらば幸に存じます。
なおこれまで私の訳書を出してきてくれた宝文館出版に今度もお世話になりました。山田野理夫さん、羽生和男さん、宮崎英二さん、よろしくお願い申しあげます。
末筆ながら、土橋治重さんのご冥福を祈ります。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ 困惑
- 困惑
- 神様の汚物
- 犬吠抒情
- ソフトな時代
- 酔いどれ詩人の道行
- 詩人もどき
- 壁
- アウシュヴィツの浴槽
- 閣下再臨
- 首の微笑
- 蝶の行先
- 蠅
- 糞尿譚 もしくは戸村さんの魚
Ⅱ 詩をつくるより
- 詩をつくるより
- 詩人です
- 比喩
- 映画館にて
- お国には宗教がまだ生きていますわね
- 下総の秋
- あくび
Ⅲ 土橋さん
- 土橋さん
- 「あとがき」人生
- つりあい
- 関係論
- 氷雨
- 教室の隣に霊安室があって
- 供養
- 石けり
- 茅蜩(ひぐらし)
- "Higurashi" Cicada
- ドアの前で
- 秋
- 花・散華――日航機墜落のニュースを聞いて
- ご臨終
あとがき