1986年6月、朝日新聞社から刊行された茨木のり子(1926~2006)のエッセイ集。装幀は菊地信義。
ハングルを学んで十年を経た
十年やったぐらいで、こういう本を書くのはなんともおこがましい気がしたけれど、朝日新聞社図書編集室の広田一さんにすすめられるままに、我が寿命のこともあるし……で、書いておこうと思った。
隣国語の魅力、おもしろさに、いろんな角度から光りをあてて、日本人、特に若い人たちに「私もやってみようかな」と、ふと心の動くような、いわば誘惑の書を書きたかったのである。
本文のなかで何度も触れたが、語学全体のなかでみると、隣国語をやる人があまりにも少なく、それで交流などと言ってもはじまらない気がする。
この本を書きあげる頃には、まずまっさきに編集室の広田一さんを誘惑できなければならないと、ひそかに目標を定めていたのだけれど、彼は私にどさりと原稿用紙を送って下さった直後くらいから、自発的に学びはじめ、いつのまにか同学の志になっていたのである。その熱意に、どれだけ刺激を受け励まされたかわからない。
私自身たのしみながらと始めたのだが、実際は苦渋に満ちた仕事になった。過去の歴史日本側の一方的な非が重たくのしかかってきて、言葉だけに限ろうとしても、そうはいかないものがあった。
からだのほうがすっかり参ってしまい、生れて初めて入院という羽目になり、あれやこれやで最初の約束の時から四年近くの歳月が流れてしまった。
同学にして同行の志だった広田一さんは、私がなんとか書き終えた頃、事典編集室に移られてしまった。そのあとを引きついで下さったのが上野武さんである。
日本文とハングルの混合を印刷するのは、かなりややこしく、特にカタカナでルビをふるのはむずかしかった。カタカナでは完全に表記できないことを痛感しながら、能うかぎり近い音でと頭を悩ませた。日本ではまだハングルにふるカタカナのルビが統一されていない段階である。
上野武さんには、このしんどい仕事につきあって頂き、編集万般のお世話になった。印刷所や校正の方々をも大いに悩ませてしまったようである。
菊地信義さんからは、韓国の指貫(ゆびぬき)を使ったすてきな装幀を頂いた。
このお三人をはじめとし、この本をまとめるにあたって、実に多くの方々から言いしれぬ恩恵をこうむっている。
私に何かを与え、何かを考えさくれた韓の国の、名前も知らない、行きずりのひとびとも含めて。
それに見合うだけのものを書けたかどうか、こころもとないかぎりだが、深い感謝を抱きつつ、また次なる峠へと歩いて行かなければ。
(「あとがき」より)
目次
扶余の雀
<Ⅰ>はじまりが半分だ
- 動機
- 国の名
- 師
- 友人たち
- 乱反射
<Ⅱ>日本語とハングルの間
- 文字
- 音
- 漢字
- 敬語
- 妹
- 名詞くらべ
- 擬声語・擬態語
- 日本方言との対比
- 妹
- あなた
<Ⅲ>台所で匙を受けとった
- 俗談(諺)
- 暮しのなかの面白い表現
- ハングルの日
<Ⅳ>旅の記憶
- 韓君
- こどもたち
- 科挙
- 粧刀
- 舟あそび
- 各自負担
- 食事風景
<Ⅴ>こちら側とむこう側
- 無窮花
- コスモス
- かささぎ
- モッ
- パリロ
- 忘憂里
- 尹東柱
あとがき
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