2009年1月、論創社から刊行された絓秀実(1949~)の詩論集。装幀は奥定泰之。
文芸批評のようなものを書き始めた時から、いつかは詩を論じなければならないだろうという、ひそかな強迫観念のようなものを抱いていた。それは、私の世代的な限界であるかも知れず、あるいはまた、われわれの置かれている文学的環境に対する私の出発点からの違和感からであるかも知れない。そして、とにもかくにも、ここに擬似的な詩史論と現代詩人論をまとめて、一冊の書物とすることができた。この構成は、一見すると、近代詩史の全体を鳥瞰するがごとき相貌を持つが、もちろん、それが虚構のものであることは、一読してもらえれば明らかだろう。その虚構性のゆえもあって、本書にはややポレミカルな姿勢が見られるかと思う。そのことに他意はない。本書の刊行以後も、そのことの責任は、及ばずながら持続的に負っていく心算である。
本書の誕生は、先の拙著『探偵のクリティック』にも増して、思潮社編集部の大日方公男氏の力によるところが大きい。私に最初に詩人論(本書所収のねじめ正一論)を依頼して、私がついに詩を論ずることから逃れえぬことを知らしめてくれたのも大日方氏である。第二部「[ポ]エティックの舞台」(po-etic? po-ethic?)に収められた詩人論の大半は、「現代詩手帖」に連載されたものだが、各回ごとに大日方氏の厳しい注文と的確な批判にはげまされた。このような厳しさ、的確さは、単行本化の過程まで維持されている。このことなくしては、本書程度のものも書きえなかったはずである。また、大日方氏には、資料面でも少なからぬ便宜をはかっていただいた。雑誌連載中における、担当編集者・日向優子氏の励ましも忘れがたい。また、第一部「詩的モダニティの系譜」は、「すばる」編集部の釣谷一博氏にお世話になった。書く書くと言いながら、ずるずると執筆を引き延ばす私を、辛抱強く、しかもしつこく待っていただいた。釣谷氏とのこのスリリングな「かけひき」(?)によって、ようやくこの程度のものを書くことができたのである。また、「俳句空間」の大井恒行氏、「江古田文学」山本陽子特集号の編集責任者・坂井信夫氏にも、この場で感謝を捧げたい。
本書がこれらの人々の好意の何分の一かにむくいるものであることを願っている。なお、本書に引用された翻訳文献は、既訳に拠った。私のつまらぬこだわりから、概ね訳者名は記さなかったが、それらの方々にも感謝する。
(「旧版あとがき」より)
旧版を、この機会に――初めて――再読して、一八年ほど前に刊行したこの本が、私のその後の批評の方向を、かなりのところを規定してしまっていることを知り、一驚した。増補にあたっては、第三部にそのことを示す批評二篇を収めた。それによって、旧版の懐胎していたパースペクティヴが、より広く鮮明になったと信ずる。本書は誤植等の若干の字句の訂正以外は旧稿のままにとどめてある。
新版は論創社の高橋宏幸氏の慫慂によってなった。優れた編集者であるだけでなく、新進気鋭の演劇批評家としても不断に刺激を受けている高橋氏の手になったことは大きな喜びであり、深く感謝する。
(「増補新版あとがき」より)
目次
第一部詩的モダニティの系譜
- 詩的モダニティの系譜――萩原朔太郎の位置
第二部 〔ポ〕エティックの舞台
- 「市民」と「詩人」――鮎川信夫論
- 反=隠喩としての詩――北村太郎論
- 詩的モノローグの彼岸慫慂田村隆一論
- 「おとづれ人」の書法――黒田喜夫論
- 散文=詩という逆説――岩田宏論
- 詩的臨界とその外――吉岡実論
- 忘却についての試論――入沢康夫論
- 聖杯の不在――天沢退二郎論
- 測量士の「女根」――吉増剛造論
- 機知としての詩=俳句――寺山修司論
- コミュニケーションとしての「飢え」――石原吉郎論
- 不眠者の間隙――山本陽子論
- 複製の王国―ねじめ正一論
- 「主体の廃墟」の後に――稲川方人論
第三部 日本近代文学の始まりと68年
あとがき
新版あとがき