妻の死の直後、ぼくはこの追想記を書こうと思いついた。だが、日ごろお互いに丈夫で、結婚以来入院生活など経験しなかった二人だけに、この死の衝撃はあまりに大きかった。ぼくには気力がなかった。偶然に或る女性むきの週刊雑誌が、一篇の哀悼詩をぼくに書かせただけであった。
それに、ぼくはかつて評判になった知名人のおなじような哀悼記を二、三読んだが、その著者たちはその中で歔欷そのままのような哀寥を綴っているにもかかわらず、両三年後にはどれも忘れたように新しい妻を娶っている。ぼくはそんな真似をしたくないと思った。
だが、今ではもう独居八年になる。亡妻の遺品その他には相変わらず心が痛くて5手をつけたこともないが、そろそろ追想記は書いてみたいと思うようになった。
ところが、さて筆をとってみると、新しい障害にぶつかった。それは過ぎた歳月の間に亡妻についての細かな記憶が喪失したことである。想い出そうにも、妻の最後の肉親である弟もこの間に死去し、わが家で唯一人妻の生活を知っていた運転手までが病気で職を去ってしまった。若いころ誰かに聞いた――
「神が人間に授けた最大の幸福は忘却することだ」
という言葉はしみじみほんとうだとおもう。人間は忘れることで楽になる。しかし追想記はその忘れのこりの部分を大切に頭脳の中から拾い出さなければならぬ。そんなわけでこの本は想ったより、ずっと短かくなった。ほんとうを言えばぼくの心の底には、もうこれ以上想い出したくないという気持ちが作いているのである。想い出すのはまだ辛いのである。
そのくせぼくは因果なことにたくさん唄を書いた。どこに居てもその唄のどれかがレコードや放送で聞こえてくる。そうした唄を書いたとき、亡妻はいつもそばにいたのであった。ばくの万以上の数にのぼる唄はみんな亡歩の面影なのである。想い出さなくても、ぼくは死ぬまで彼女から離れることは出来ない。
亡妻の記があまりに短かったので、ぼくはこれに、昔書いた雑文を附足した。それも、なるべく彼女に縁のあるものを選んでみた。疎開地の日記抄や、母や、亡児や、友人のことなど皆そうである。「唐人お吉」の下田港は不思議にわたしたちに縁があって、たびたび二人で行き、ぼくが彼女の仆れたのを電話で聞いたのもそこでであった。
「波浮の女」はぼくの十五歳ごろの想い出で、もちろん野口雨情の「波浮の港」などという唄が生まれない以前であった。同行の村井という友人は本名そのもので、彼は長じて有名な船長になり、現在でも横浜近くに住んでいる。ここに出てくる上総屋という宿を、故水谷竹紫さんが写真にとってくれたのは楽しい想い出であった。水谷八重子さんと令兄とぼくは、伊東から汽船でこの島へ渡った。デッキでこの話をしていると、竹紫さんが、不自由な片手でシャッターを切ってくれた。これ序も遠い遠い昔のことになる。
(「序」より)
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序