1957年2月、同成社から刊行された村松武司(1924~1993)の第2詩集。
ぼくが昆虫ばかりを愛していた少年時代から、冬の兵隊として国境にいた時代までの精神が、当然、戦後に書かれたこの第一詩集の前提になっている。
少年時、京城の日韓書房でしばしば手にしてためらったあげく、ついに読みふけるようになったのは、ナチス作家フリードリヒ・グリーゼの「怒濤」、エルンスト・ヴィーヒェルトの「ドスコチルの女中」、またハンス・グリムの「土地なき民」等々の作品だった。映画は、カール・リッターの作品。中学生のぼくがナチズムの心酔者であろうはずはないが、世代をあきらかにするならば、求める手に触れるものは、植民地における総督府の文教政策に直接的な役目を果たしていた全体主義的な書物が多かった。
一方で、当時、中学教師が花崗岩の白い校庭を窓越しにながめながら語ってくれた、白頭山の探検隊の報告や、火口原湖に群なして死する数千数万の蝶、そして北部の火田民や朝鮮人のパルチザン活動など。ある日ある授業時間中の雑談にすぎぬものが、ほとんど現在までのぼくを作りあげてきたように思われる。ナチスの強力な神話性と、潜在していた朝鮮独立運動の流れ、また張赫宇のプロレタリヤ小説の古本などが奇妙に複合し、未整理のままで、幼かったぼくは徴兵検査をうけた。この時代、自己を合理化するために支柱となったのは、「国境単一化運動」論や、大江満雄の「日本海流」から得た民族共同体の夢であった。大木惇夫の「海原にありて歌へる」の英雄詩は、「貧しきものの新田には、おほくの糧あり」(グリーゼ)というナチスの逆説を否定することもできなかった。
否定するどころか、これらからぼくがうけついでいったものは、この詩集の結果からするとごく表面的なものだったように思われる。すなわち、表面にあらわれた、血と土に関する稚ない妖精たちすら、ぼくがふりはらいつつ歩いてきたと言えるだろうか。ぼくの詩の皮膚に食いこみ、そこで棲息している肉体関係ある物体どもを、社会関係に置いてながめることが、こうした生ぬるい自己認識、問答形式によって可能であるかどうか。それは不誠実、不完全な計画であったことを知る。
すなわち、物体の価値。価値を知るために労働者の立場に立った。とはいえ、社会的価値と肉体関係を持つまで、知識階級のひとりとして、ぼくが最大の努力をかたむけることは困難をきわめた。これはこれからはじまる問題だ、と言いきれない、ごまかしのきかないものにぶつかっているのだ。
(「後記」より)
目次
- 未知の女
- 国境からの手紙
- 父Ⅰ
- 父Ⅱ
- 怖ろしいニンフたち
- 死者のいる海
- 運河のうた
- 子
- 詩人の出発
- 消滅
- 病熱の夜に
- 妹に
- 宝石
- 人間の橋
- 仔犬のワルツ
後記