1982年6月、至芸出版社から刊行された水谷きく子の第2歌集。
この歌集の作品の或る部分は、『板橋区栄町』に重っている。その歌集が出たとき、私は丁度、朝日新聞に歌壇時評を書いていたので、とりあげて、特異な素材による歌集として、切実に歌われていることを示しておいた。たちまち反響があって、あまり沢山も刷らなかったその歌集は、すぐなくなってしまい、再版になった。こうした素材による作品が、多くの人々に関心をもたれたらしい。
その後、この作者は少し転身をはかるつもりだったのか、素材に真正面から立ち向わず、身をよじって歌うようなことをはじめた。私は、特別に注意することはしなかったが、選歌の折りには、きびしくした。やがてまた素材を正面から見すえて、歌いつづけるようになった。少しばかり気のきいた歌い方をしても、作者が心の底から共鳴し、同感したものでなければ、結晶した作品が、読者に訴えてゆくはずはない。ましてこの作者のように、特別養護老人ホームに挺身している者にとって、そんな遊びはあるはずはなく、思い一途にやる外はないのである。
この作者が、それまでゆたかにやっていた仕事を放棄して、転身したのは、大変な決意であったろう。そして、そこに生きる方向を定めるところからこの歌集ははじまる。
私はこうした立場のなかから切実に作られる作品に共鳴し、敷声をおしまない。私たちの大勢の中にまじっても特種な職場にいる作者が、ますます、この仕事に根を深くして励んでもらいたいと念じている。そうしてこそ作品としてもすぐれたものが出来ると信じている。まだ多少の不安はあるが、一つの区切りとして一冊にまとめた著者の決意に拍手を送ると共に、多くの人々にもよむことをおすすめする。
(「跋/中野菊夫」より)
寝たきりのお年よりのお世話をするようになってまる十年がたちました。石の上にも三年といいますが、その三倍以上の年月が過ぎたのに、いま振りかえってみれば、初めて寝たきりのお年よりの手をとった日の、あのどうしたらいいのか見当もっかない戸惑いから、一歩も踏み出していない自分に気付きます。
お年よりとの日常を、短歌と云う三十一文字の表現方法に託して、見たままをうたうようになってから、やはり十年がたちました。そして私にとって、この短歌というものが、どうにも難しく厄介で、そのくせ離れられそうもない存在になりました。まるで、今日までお世話してきたやさしくて頑固なお年より達のようにです。 中野先生にお逢いしたのは、私の兄、松岡緑郎が以前から樹木の会員でしたので、新しい仕事についたのを契機に私も樹木に入会させていただきました。私にとって、短歌を作るとしたら、その先生は、中野先生以外には考えられませんでしたし、そういう意味で、私はいまでも兄に感謝しています。昭和五十三年都職労養育院支部創立三十周年の記念行事のなかで当時、支部執行委員だった私の仕事にかかわることを詠んだ作品を主とした小さな歌集、『板橋区栄町』をまとめました。これを中野先生が朝日新聞歌壇の時評欄にとりあげて下さるや、全国の見知らぬ方々から、沢山のお手紙をもらいました。また組合の図書紹介のルートを通じて、福祉事業に携わっている、それこそ短歌とは無縁の人達の手にもわたって行きました。朝日新聞で見ましたというある中年の婦人から「年とった姑が寝たきりで、家族や親類の者までが、大変だから施設にあずけるようにと進めるし、私もその気になりましたが、この歌集を読んで、やはり私が最期まで面倒をみようと決めました。老人にとって家族とは、かけがえのないものなのですね」という意味の長い手紙をもらったとき、素直に短歌を作っていて良かったと思いました。
老人福祉が見直され、寝たきりのお年よりに暖かいベットが用意されるようになって、わずか数年しかたちません。それがいまや、家庭からお年よりを引き離すための手段に変りつつあります。こんな矛盾の中で、訴えたい多くのことがあるのに、上手に表現出来ない苛立ちで、常に何かに対して、憤り続けている自分の幼稚さにあきれています。
(「あとがき」より)
目次
- 紙の飛行機
- パントマイム
- 神に託す
- 静寂
- 柳の答
- 帰らざる船
- シャボン玉
- 淫らごと
- それぞれの
- 野うさぎ
- 骨肉
- ゆずり人形
- トルコの耳輪
- 花に早き
- 補聽器
- むらさきの壁
- 孤高の老い
- リタイヤ
- 職業として
- えごの花
- 抑制着
- われの名を呼ぶ
- 幾千の蝶
- 白きブーツ
- 解禁日
- 錯乱
- 裏窓
- 棲みつく
- 指きり
- 胸摑まるる
- 無人歌
- 薄氷
跋 中野菊夫
あとがき