1993年3月、千路留から刊行された橋本碧の詩集。装幀装画は石原佳代子。
なぜ、これほど路地が好きなのか、解らない。路地を歩いていると、わたしは落ち着いた気分になり、何も考えていない時もあれば、意識を集中して必死に考えをまとめようとしている時もある。
古びた板壁。塀際の可愛いい花々。鳴きながらどこまでもついてくる仔猫。それらにまもられて、他所者のわたしは、この町で三十余年を過ごしてきた。
この町の路地でなければ得られぬ何かを、懸命に探りもとめてきたつもりである。想いは果てしなくて、いまだ形をなさずにいるあれこれのひそやかなものたちの重みを、掌で計るとき、思わず漕ぐんでしまうほどである。
――わたしを書いてね。わたしたちを書いてね。
とそのひそやかなものたちは囁く。
――ええ、きっといつかね。でも書けなかったらごめんなさいね。うまく書けなくてもね。
とわたしは囁き返す。路地のこれらのものたちに支えられて、わたしはまだ少しくらい生きてゆけるのだろう。ぼんやりとタバコをふかし、ぼんやりとグラスを手にしながら。
しかし、わたしが書き記した文章は、いうまでもなく、現実の路地のすがたではない。路地の思想とでも言えばよいのか、わたしの頭のなかの幻想風景である。
目次
あとがき