海と山と 葉山嘉樹

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 1929年2月、河出書房から刊行された葉山嘉樹(1894~1945)の長編小説。装幀は高橋忠彌。書きおろし長編小説叢書第10回配本。画像は裸本。

 

幕の前にて

 私の意気込みは、こんな小説を書くことにはなかつた。ちやんと筋道立つてゐたし、波瀾萬畳とまでは行かなくても、少しは波瀾もあつたのであるが、私が書き始めると直ぐ、まるで私を愚弄するやうに、も一人の私が飛び出して來て、勝手にどんどん書いて終ふのだつた。
 これには私も弱つた。赤の他人か、家のものかが、そんなことをするんなら、私は怒鳴りつけて、叩き出して終ふのだが、そいつは私の頭の中に巣くつてるやがるんだから、叩き出すわけにも、焙り出わけにも行かなかつた。
 私は、一人の青年が、海や山やを轉々流浪して、段々、えらい人間になるやうに、たとへば、この小說さへ讀めば、「偉くなる」こと請け合ひである、と云ふ風な小説を書かうと、思つてゐたのだ。
 ところが御覧の通り、まだヒマラャ山の姿も見ないうちに、カルカッタで引つくりかへつてしまつた。
 思ふに、これは作者が、柄にないことを企てた覿面の罰だつたのだ。つまり引つくりかへつたのは、主人公よりも作者の方だつたのだ。
 だが又、醫療器具そのまゝな文學に、快からず思つてゐられる、文學愛好者も居られるであらう。そう云ふ人々は多分、私の小説を見ても、腹を立てないで濟まされるであらう、と云ふのが、私の唯一の救いなのだ。
 いや、とに角、ものを書いて、それに肩書をつけて勿體振らうとするのは、餘りいゝことではない。私は頭を下げて、どうも、下らない話を、長々とお聞かせ致しました。と引き下ることに致しませう。

 

 

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