1951年11月、長島愛生園慰安会から刊行されたアンソロジー詩歌集。
長島の人々は甘年前にこの島に愛生園が誕生した時からすでに詩の発足をしていられ、昭和十一年には「長島詩謡」第一輯と云う立派な詩集を出していられる。それは光田園長先生及び當局の方々の文藝に対する深い御理解からこの人生に於ける最も悲惨な病苦を負うて社会から隔離された憂愁の人々を慰めるには、文學えの精進と云う精神的なよろこびが最も大きな力をもつて居り、又こうした人々こそ價値ある作品を創り出す機縁を秘めていることを察せられての事であつた。
その當時からしばく島を訪ねて講演もし選評の労をもとつていられた藤本浩一先生のよき指導により、昭和十一年「長島詩謡」第一輯には詩三十九篇を十一人の人が、歌謡三十二篇を十三人の人が発表している。しかしその後すでに十五年をへだて、ことに變轉の多かつたこの年月のうちにはすでに故人になられた方もあり、又新らしく入園された方も多いので現在の詩謡会は人員名一新し、當時の会員はわづかに一、二人を残すのみである。
目下の会員は病気の輕重により時に二、三出入はあるが、ほゞ十五人をかぞえ毎月「愛生」誌え発表のために熱心に必ず稿を寄せる人々も十指にあまつている。その作品も仲々よいものを散見し、こ数年のうち私の記憶に殘つているものもかなりの数にのぼつている。
私は終戰後岡山縣に住み地の理を得ている事により、又先輩藤本先生の御消息不明の時期があつた事により、この島の人々の詩作品を拝見する宿縁を得、次第に今ではこの島の詩人を友人として接するようになつた。
こうしてほゞ第二の詩集をつくる機運の熟した時に當り、愛生園長光田先生に文化功労者として年金を授けられるとの報に接した。
この事のあまりに遅いうらみはあるとは云え、戰後混乱の狀態にあつた秩序の次第に回復して、まづこうした制度の出來たこと、そしてその第一回に先生の選ばれたことは、先生のため長島のためのみならず、日本としてもまことに喜ぶベきことである。
光田先生を識る人は多く、又その事業に對して身をもつて從つている方々もあり、かてて加えて先般御逝去ましました貞明皇后の御遺徳により、救癩事業はとみに世人の関心をもつ所となつたので、この事をよろこぶ人は実に多いと思うが、そのうち最も喜び祝つているのは、ほかならぬ愛生園の患者諸君であると思う。私がある雨の日この島を訪れた時、先生の銅像に傘をさしかけてあるのを見てその光田先生に対する愛慕の情のいかにふかいかを思い感銘をうけたことも思いあわされるのである。
こうしたよろこびの志として機運の熟していた詩作品を集めて貧しくとも一籠に盛り先生に献じたいと云うのは、詩話会としておのずからの成行きであり自然の情であつた。心を同じくする俳句短歌の方々も、それぞれにこの企てのある事をきゝ及び、今相共に色と匂いを競つて先生の御前に捧げたいと思う次第である。
私の如く先生を識ること浅く且つうとい者が喋々する事は却つておこがましい次第ではあるが、私は先生を近代の真の意味の英雄であると思い、且つ愛の使徒であると同時に偉大なる科学者として最も尊敬している。しかもそのつましい人間像を仰いで、こうした方に親しくお逢い出來ることの倖せを島を訪れる毎に何一層と感じるのである。
近來やゝ御足許がおぼつかなくお見受けしていたが、一たび消毒衣を着けて患者にむかわれるや俄然壮者をしのぐ機敏さと鋭さが全身にみなぎり且つ一点の症状もみのがさぬ周到綿密な診察ぶりであり、その御様子は癩そのものにむかう攻撃意慾と、慈父の溫情をこめての全人格がまさに活き活きと活躍している感じである。
しかも亦、一方患者のためにあらゆる近代的設備ををしまれず、尚私共來訪者えも至れりつくせりの御もてなしをして下さるにもかわらず、御自分は質素きわまる生活をなされ、且つ小さなアルマイトのお弁當箱から一人中食をめし上つていられる。
私は「愛生」誌上で最近の御感懐七十五年迎誕辰 半生執着有回春
白頭老眼乞休笑 獨對明鏡究本眞をよんで思わず落涙した。白頭老眼乞休笑と云う先生は、なおも命あるかぎり癩菌の本眞を追求することをやめようとはなさらぬのである。その明鏡即ち顯微鏡にむかわれる時の先生のお顔の美しさこそ人間のもつ最高の表情であると思う。
先生と云う中心あつて島は文字通り、樂土である。先生の御長寿を願うもの、長島全島の人々の真情であるのみならず、縁あつてはからずもこうしためでたい詩集の序文をかく光榮をもつに至つた私の心からの祈りである。
尚詩集の題については詩謡會員の相談の結果「綠の岩礁」とした。常に社會の水面上には姿をあらわさぬにかわらず、しつかりした根底に立つて生き、且つむくつけなものと一見思われながら人知れぬ美しさを持つているものとしてこうした題を選んだ心と思う。しかもそうした岩礁は事實この長島の周圍にもつとも親しく見られ、この生活をとりかこんでいる所のものである。光田先生はよろこんでこうした意味の題名の詩集をお受け下さると思う。
內容は過去「愛生」及び他誌に発表された詩のうちから自選及び私の選擇を經たものである。その一人々々の生活を打ちだし苦しみの中に洗われた眞情掬すべきものがあり、いまだ完璧の域には至らないにしても充分美しさをみることが出來ると思う。ことにプロミン剤の出現とともに島の人々の心には一沫の明るさがもたらされていることもうかゞわれる。更にすぐれた作品をめざしてこうした道標をうち立て得た事は会員のよろこびであると同時に、現詩壇をはじめ救癩に關心をもたれる方々、並びに一般の讀書子諸芸にも溫かい御批判御鞭撻をいたければ更にありがたい事である。
まことに不束ながら以上を長島詩謡第二集「綠の岩礁」の序文とし、まだ多くの語るべき事を残しながらこれをもつて擱筆したいと思う。
(「序文/永瀬清子」より)
目次
序 永瀬清子
- 今井たゞし
- 故 破摩浩一
- 豊田志津雄
- 故 小野寺潔
- 河田正志
- 中園裕
- 中本一夫
- 牧野英生
- 小村義夫
- 小島浩二
- 境登志朗
- 故 岸上哲夫
- 水島和彌
- 島村静雨
- 志樹逸馬
- 黙木啞夫
- 森中正光
- 森春樹
あとがき