魂、この藁の時間 大島邦行詩集

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 1999年4月、思潮社から刊行された大島邦行(1949~)の詩集。装画は橘川祐一。著者は水戸市生まれ。

 

 少年犯罪やら不景気やら、さらには毒物まで、一九九八年は毎日のように媒体(メディア)による世紀末現象に接してきた。世相の反映に加えて異常気象もその一翼を担ったであろうか。私の住む地方の街では、八月の集中豪雨の状況をテレビカメラが四六時中追っては、定点観測モデルよろしく水位の上昇下降を逐一報じていた。私たちは遠くの現実に近くで接し、また遠くを経由した電波によってごく近くの現実をみていたのだ。自分の街を媒体を通してリアルタイムでみている不思議さに何らの違和感がない。あたりまえの日常の操作によって瞬時に無意識の世界に入り込む。時空を超えて私たちの感覚が広げられて、知らず意識と経験が形成されていく。しかも同一のエネルギー消費による同一の意識と経験は、同一の眼や鼻や耳や舌までも要求する。テレビの前ではむこう側の事実に対して心配や不安を共有することを強要され、ぼんやりと眺めている自分に気づくとき責任がないわけではないと思いこんだりする。だが、居ながらの自分を責めつつも媒体(メディア)のむこう側から言葉が届いてこないのだ。繰り返される映像は事実を強固なものにつくりあげていく、そのたびごとに精せ細る言葉とイメジの宙ぶらりんな在り方、そこにどっぷり浸っている自分の表層だけが肥大する。いや、肥大化しているのは媒体(メディア)の可能性であって、それによってむこう側もこちら側も歪められ希薄化している無意識の魔力のなかにいるのかもしれない。
 ちょうど十二年前、一九八六年の八月もそうだった。それは前詩集『水運びの祭』を書き進めている折、台風による洪水は同じ状況を呈していた。あのとき、何かしら忘れかけていたものを思いおこさせる荒々しい力、つまり私たちの無意識の底の血の流れのようなものを感じた。生活が大きく変化したわけではない。きっと言葉の届き方が変わったのだろう。ただあるだけの自分を振り払い、言葉で向い合う確かな手応えを求めたいと思いつつ、ここにこの十九篇をもって一冊にまとめる決意をした。日本の近代を戦争で支えてきた、私の〈父〉や〈母〉になるであろう人の、またその世代の、ここまできてもまだ癒やされない心とむしばまれ老いていく身体と、そこから発する言葉にならない仕草を見つめながら。
 未熟な思考と稚拙な表現にいつも粘り強くおつきあいくださる星野徹先生に感謝いたします。
(「後書」より)

 

目次

  • (プロローグ) 
  • (残った笑い)
  • (葛の風)
  • (魂のかすかな声)
  • (突起する春がはげしく崩れて) 
  • (コラージュに似た笑い)
  • (あれから母となる人の陰画は) 
  • (だれも語る者のいない夏は)
  • (閉ざされた母の乳首)
  • (愛が不器用に拗けて) 
  • (包茎の夏) 
  • (やがてひそかに落ちていく) 
  • (血縁の日向で) 
  • (記憶は肉を食んで芽ぶく) 
  • (西日に押し花)
  • (ひとり去り)
  • (たとえば痕跡)
  • (罪は玉葱の腐った臭い)
  • (骨 珊珊)

 

後書

 


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