2003年5月、思潮社から刊行された暮尾淳(1939~2020)の第4詩集。付録栞は飯島耕一「道化の唄」、堀切直人「酔いどれ痴愚」。版画は司修。
八年ぶりに詩集を出す気になったのは、去年八月三日九十五歳で伊藤信吉さんが亡くなったからである。わたしが詩を活字にすると、そのつど伊藤さんは読んでくれ、しかも褒め上手だった。伊藤さんの詩についても、褒め上手とはほど遠かったけれど、わたしが素直に感心しているうちに、伊藤さんは二冊の詩集をものした。それだけでわたしは充分だったのであるが、伊藤さんはしきりにわたしにも詩集を出すことを勧めた。ずいぶん作品が溜ったろうから二年続けて出すのはどうか、とすら言ってくれた。エッセイ集についても気を揉んでくれていた。新世紀になって、わたしは次の叙情小曲ふう小品を「騒」に載せた。
蚊遣りソングいつも月は歪んでた
用水桶の水のなか
ぼうふらこんと音聞くと
ふいっと沈んでまたふわり
ふにゃくらふにくらひの国で
羽化して浮かれてぶんぶんぶん
いまは蚊遣りの線香の
火は草色の輪の芯に
ここががまんのしどころと
しがみついてはいるけれど
遅々と進まぬ夜なので
血は吸えませんもういけません
虫一匹だいさぎよく
草葉の陰に参ります
さよならさんだ
新世紀
ぶんぶんぶんがくぶんぶんぶん
羽音立てずに果てまする。
この小品を読んだときに、伊藤さんは、わたしの真意をさぐるような目付をふと見せた。わたしは一瞬申し訳ない気持ちがした。
詩文学に対して詩文芸という言い方があろうが、わたしはここのところずうっと、その詩文芸のほうをやっていたつもりである。もっとも学芸という言葉もあるのだから、それぞれの定義はとなると入り組んでしまうが、わたしの詩的叙情の出入りするところがいまでは文芸という港を恋い慕うとでも言っておこうか。と言うよりも、文学に対して文芸ひいては現代と近代を持ち出すような、そういう二項対立的にすぐとらえてしまう感性や思考の枠組から、逸れたい、圏外へと脱却したいというおもいが、わたしに詩(のようなもの)を書かせるのであろうと言うべきか。
わたしはなぜか愚かしいことのように思えて、自分のそのような考えを、伊藤さんにぶつけてみることができずにいたのである。
ここには一九九六・平成八年からの三十篇(「あとがき」の一篇も加えて)を選んだ。どれもが「騒」や「核」などに一度は載せたものだが、今回手を加えたのもある。
飯島耕一さん、堀切直人さんには、忙しいところを栞に一文を寄せてもらった。司修さんには木版画を装幀に使わせてもらった。何かしら気恥ずかしいおもいがするのはいつものことだが、この第四詩集『雨言葉』にを添えてくれたご好意に感謝の念はつきない。
ここ数年この詩集を読んでもらいたかった先輩や仲間が、すこんすこんと生のベルト路から死の側へと落ちて行く。その年齢にわたしも差しかかっているのだ。
真っ先にこの詩集を手に持って、いまでも「居ます、少しツンボ」という紙片の貼ってある、伊藤信吉さんの家のドアの呼び鈴を押してみたかった。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- ビアレストランで
- 自動販売機の前で
- サリの日のこと
- 昼の月
- 雨言葉
- コノシロ
- 「秘湯」の女
- 喝!
- きくやホテルの相部屋で
Ⅱ
Ⅲ
- さくらの時節に
- 花火
- 骨町
- 剥落
- しめ鯖に中たった夜
- 秋の日の午後
- つむじ風
- 変な朝
- 一九五九年の女に
- 運動会
あとがき