美しさとさみしさ 福田和夫詩集

 1982年12月、思潮社から刊行された福田和夫(1947~)の第3詩集。装幀は司修。著者は大阪生まれ。

 

 七、八年も前になるか、『巣箱と鳥類保護』(加島書店)という本で、人間は、それぞれの鳥の特長に合わせ巣箱をつくっているらしい(……つくれるらしい)と思ったことがあった。
 そこには、益鳥とされる数々の鳥の巣箱が、写真やデッサンで紹介されていた。
 意外だったのは、フクロウにも巣箱があることだった。その紹介はデッサンになっていたが、しばらくみつめているうちに、(図鑑などでしか知らないが)かのフクロウが実際に営巣すれば、巣箱の中にフクロウがいるのか、フクロウの中に巣箱があるのか、わからなくなるな、と思ったことがあった。
 そのデッサンは、かのフクロウの前姿とじつに相似形になっていたのであった。
 ところで、私的イメイジのあらわれを示して、その解読をかくことになったので恐縮なのだが、巣箱の中にフクロウがいるのか、フクロウの中に巣箱があるのか、ということは、この二つは二つにして一つのことだと思う。
 たとえば、いいかえをしてみたくなる。世界の中に人間がいるのか、人間の中に世界があるのか、と考えてみれば、どう答えてみようかと思う。このような分け方自体ナンセンスだとなればそれまでのことだが、私は、人間にはイメイジの痛切さ、とでもいうべきものがあることを、あらためて思ってみたくなった。
 どう考えてみるべきか、どう答えてみるべきか、その地点がすでに、誰にとっても痛切でないことはない、と思っている。先の、二つにして一つのことというのは、世界は本質的に選択の問題ではない、というほどのことである。人間のイメイジの痛切さ、ということも、そこのところのことだろうと思っている。
 それにしても、私は詩集をこの世に渡す明確さのために、あとがきをかいているつもりはまったくなく、本質は作品を読んでいただければよい。既刊詩集のあとがきも含め、ここでのことは私という読者を想定しているといっておくほかにないものである。
 ところで、この『美しさとさみしさ』は『名前を呼ぶ』(一九七七年十一月/深夜叢書社)、『勇気のある鳥』(一九七九年十二月/創樹社)につづく三冊目の詩集にあたる。まだほんのちょっと歩いただけのことながら、詩集を出してこれたのは、読者にめぐまれた励みが大きかったと思っている。
 かといって、それが希いということがらの領域であることは、いつも知っていたつもりである。こころはそこにあっても、世界(や自然)を共有しようということは、たやすいようでむつかしい根本というものだろう。
 作品がそこにかかわれているかではあるが、このたびも、読者にめぐまれればと希っている。
 ながいあとがきになったが、最後に記録しておきたい。
 書物は内容を持つことだという前提はあるが、私は、装幀は書物の着地と持続にとって重要であると考えてきた。
 端的には、(何度読まれるにしても)その書物が読まれる時間よりも、書物としての姿(表情)をあらわにしている時間の方がはるかにながいということだろうか。この詩集および前の二詩集を合わせてごらんいただけることがあれば、共に司修氏の装幀に拠っていることが(また、私の好みを承認していただき、そろって同仕様の本になっていることも)わかるはずである。
 また、かきたしておきたいのは、司氏の装幀にこころがみち、そのまとまりとしての考えが芽ばえたことである。私は、私の詩作通過上の愛着の表現として、三冊については、そうしたくなっていった。
 振り返えれば、それは計画性のある依頼の流れではなかったのだが、司氏には結果、三冊の詩集に、継続的な美しい表情をあたえていただいた。
 私としては、いづれの場合もお忙しい折に御厚意を下さったことを感謝をもって想い起すと共に、ここに、そのよろこびの意を表しておきたい。
 なお、この詩集は、一九八一年の年の瀬までに用意してのち、一九八二年の五月までに数篇を改稿してなった。この上梓にさいしては、司修氏のお言葉添えで、思潮社の小田久郎氏のあたたかいお世話になった。ここに、合わせて記録しておきたい。
(「あとがき」より)

 

目次

  • 頰くらいの空気
  • 行き過ぎるこころ
  • こころを並べる
  • 感情移入の結果
  • その祝典を祈って
  • 夢話
  • 梅雨電話
  • 夏のうたたね
  • この流域にそいながら
  • あのお二人
  • 言葉
  • 抽象のほかないほどに
  • 悲しい親しみ
  • 意識の悲しみ
  • せつない夢
  • ユニバーサル・ハート
  • 悲しいのは
  • ある仮説
  • しさとさみしさ

あとがき

 

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