やさしい現代詩 自作朗読CD付き 小池昌代/林浩平/吉田文憲編著

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 2009年2月、三省堂から刊行された現代詩入門書。編集は小池昌代(1959~)、林浩平(1954~)、吉田文憲(1947~)。収録詩篇の朗読CD付き。編集協力は用松美穂、表紙写真は土屋文護、組版・装幀は㈲オーポン 五味崇宏、スタジオ録音は2008年8月~9月。作品紹介は編者たちによる。

 

 やさしい現代詩。現代詩がやさしい?――この題名に反語のひびきを聴く読者もおられよう。そもそも現代詩という言葉は、世間の日常会話のボキャブラリーに入ることはまずない。文学とか小説とかいった言葉ならどこでもすんなり流通するにかかわらず。だからそれだけで現代詩は、どこか秘教的で、世間に背を向けた気難しい営みと受けとられがちだ。
 実際、詩というものは、確かにそんな一面を持つのを否定できない。公約数的、あるいは民主政治的な最大多数の幸福と利便のために働く、という機能から逸脱して、言葉は時にみずからを極限状態にまで赴かせる。そこでなければ開花しない絶対の美や力があるからだ。詩は言葉の特権的次元を求める。いわゆる happy fewの神話は真実だろう。
 しかし、日本の現代詩は、これまでなんと長い間、happy few すなわち選ばれた幸福な読者との蜜月に凭れかかってきたことか、と思う。惰性というのは恐ろしい。過疎のムラ社会に生きることが日常となれば、現代詩は詩であることを忘れ、一種の文学的方言であることに居座ってしまう。この観察は、いまの現代詩を取り巻く状況を見るに、残念ながら「正しい」と言わざるをえまい。
 現代詩の言葉を、この社会のなかに送り出してみよう。三百六十度、辺りを見回してもどこにも避難壕(シェルター)などないところで、われわれの言葉を無数の眼差しに晒してみてはどうか。
 そのための試みとしてここに選んだのは、詩の書き手による自作朗読である。詩の言葉にとって、それを書いた詩人は全能の神でもなんでもない。ただ、もっとも純粋な読者のひとりであり、よき理解者であるはずだ。そのひとが読みあげる声に、言葉に耳を傾けてみたい。そして、詩の本文を開いて、解説のコメントを手がかりにしながら、じっくりと詩の言葉そのものに対峙してみる。そのとき、そこになにが「読める」だろうか。
 現代詩は、想像したよりも案外「やさしい」かもしれない。それともやっぱり難しいだろうか。その判断は、読者の皆さんに委ねよう。
(「あとがき/林浩平」より)

 


目次

まえがき

あとがき

 

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