石群 佐藤さち子詩集

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 1980年10月、彌生書房から刊行された佐藤さちこの第1詩集。

 

「石群」に寄せて 佐藤さち子さんのこと 佐多稲子


 佐藤さち子が、ようやく詩集を出す気持になった。それは私にとってる喜びである。今までにも何度か、私だけではなく他の友人たちとに、彼女に自身の詩集を出すことをすすめてきたのだ。そんなとき佐藤さち子が返事をにごすのは、単に現実面でのむつかしさだけではなかった。一瞬、内にこもる表情のかげに彼女は、微かなはにかみをひそめていた。それは、彼女としての誇りのうちに、自身を計るきびしさをふくめているものに見えた。この誇りとはにかみは、詩人としての佐藤さち子の感受性の、強靱さと慎しさであって、この場合、その慎しさにより比重があったであろうか。慎しさとは、自身に立ちむかったときのきびしさに裏打ちされているものなのであろう。
 だが、まだ娘時代の佐藤さち子を私が知ったとき、彼女はすでに、北山雅子という詩人であった。やがてもう五十年近い以前である。一九三〇年代のはじめ、プロレタリア文化、文学運動の中で、北山雅子の詩は常に私たちに親しかった。最近、当時のプロレタリア文学運動の機関誌や、啓蒙雑誌の復刻版が出版されて私などになつかしいが、その誌上に寄せた北山雅子の仕事は決して少くはない。しかも北山雅子の場合、当時の激しかった支配権力の下で、彼女も途中から小林多喜二などに近い非合法の活動に入っていて、その詩はどこかから送ってくるというときもあった。佐藤さち子の当時の生活のことで、私に強く残る話がある。
 一九三二年の当時、私もその活動のために、小林多喜二たちと秘密に逢っていた。ある日のそんな場所で、北山雅子は私と落合った。彼女は非合法の生活だから、限られた人との接触のほかは、友人に逢うということはなかったのである。誰かに逢いたい、誰か友達の家を訪ねて語り合いたい、というおもいが胸の内をよぎるとき、その欲求は押え込まねばならなかった。丁度そんなときのある日、出かけた連絡の場所におもいがけなく私がいたのだ、という。そのときの嬉しかったこと、と佐藤さち子は、それをずっとあとの戦後になって、思いをこめて私に語った。私はこの出会いを、実は忘れていたのである。私の方は秘密の連絡に出かけてゆくにしろ、生活は今までどおりの、つまり普通の状態にいたから、北山雅子の感動には思い至らなかったのだとおもう。この話を聞いて、彼女にすまない思いをするとともに、潜んだ生活の辛さというものを、人の感情のひだに分け入って知らされるようにもおおって、この話そのものに感動したのである。
 佐藤さち子は、そんな生活に入る以前から宮本百合子に近しかった人である。だから戦争中の一時期は、百合子のそばで暮らしていて、雅子、という名から、雅子ちゃんと百合子に呼ばれたりした。戦後、宮本百合子が亡くなったとき、主治医と病状の報告をしたのは、彼女の夫君、佐藤俊次さんである。このようなつながりによって、宮本百合子についての追憶は、佐藤さち子と私に共通する。壺井栄もおたがいの友人であった。つまり私たちは、百合子や栄たちともどもかつてのプロレタリア文学運動の時期を、いっしょに歩いてきたものなのである。そしてその後の年月において、さち子と私のおたがいは、双方の子供の成長も間近かに見てきた。戦後の活動としてる私たちは、新日本文学会と婦人民主クラブに依ってきて、婦人民主クラブでの佐藤さち子は、一時期、この団体発行の「婦人民主新聞」の編集長をつとめた。
 佐藤さち子がこのたび一冊にするその詩集は「石群」という題である。この詩集のうちにおさめたひとつの詩の題名であるが、その詩「石群」に見られる詩情が、佐藤さち子の詩心の根本であろう。この詩集の全体に流れるのがそれを示している。その上で私としては永年のまじわりによって、この詩集のうちに佐藤さち子の精神とその営みのすべてが読み取られるようにおもえ、私自身の感慨も引き出される。永年の友、佐藤さち子の詩集「石群」に、私の喜びを添えることができて嬉しい。

 一九八〇年晩夏

 

 はじめての詩集を出すことになった。十代には二十歳になったら――と思い、二十代の頃は三十になったらと思い乍ら遂に果さず、来年は七十歳になる。
 敗戦の翌々年、佐多稲子さんのお骨折りである旧い書肆から「母と子の詩集・みかんの皮」という、佐多さんの序文、壷井繁治さんの跋文を添えた詩集を出して貰うことになったが、担当の編集者が退職したりしたことから立ち消えになった。その後佐多さんをはじめ周りの人たちから幾度となく詩集の出版をすすめられたがその気になれずにいた。そのためらいには希うような作品をまだ書けない無念さがある。
 今度、佐多さんから膝詰談判のようにしてすすめられたのを機会に、ながい間積んであった古い資料のなかから作品を探し出して選んでみた。戦前、戦中のも大分失くして終ったので戦後の作品が多くなった。北山雅子の筆名でプロレタリア作家同盟の頃に書いた作品は、当時の「主題の積極性」という創作方針にこたえて書いたもので、いま読めば気恥しい程の気負いだけが目立つが、それでもなるべく抒情性を失うまいとして書いたものだった。伏字は埋められるがそのままにしておきたい。
やっとこれだけ、と思わないではないが、これが手探るようにして書いてきた私の詩である。
(「あとがき/佐藤さち子」より)


目次

  • 仁王門にて
  • 黄色い牛の来る朝
  • 店頭
  • いつかは草原だった広場で
  • 風媒
  • 貝殻の町
  • 海へ往く道
  • 古着
  • 猫と蛋白質
  • 日食
  • 刷られた白紙
  • 活字
  • 炊煙の歌
  • 棒と靴底と
  • 堀切橋
  • 示威(デモ)へ
  • 若者に
  • 洋傘
  • 病める悲哀
  • 春宵
  • 蜂の巣
  • 夜半に聴く声々
  • 猫楊
  • 二月のある日に
  • 踏切を、汽車が通るまで
  • 子どもの招宴
  • おまえもリボンをひるがえして!
  • 人形
  • 五月の娘に
  • 雑巾のうた
  • まないたの歌
  • 小さい 小さいシャンソン
  •  空模様
  •  堤
  •  台所
  • 少女に
  • 断章
  •  首
  •  歯
  •  S
  • 白い朝
  • たんぽぽ
  • 陽と 土と 手と
  • 黒い河
  • 石群


「石群」に寄せて 佐多稲子
あとがき
初出一覧
略歴


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