1982年12月、雁書館から刊行された中西洋子の歌集。装幀は小紋潤。中西は柳原白蓮の研究家。
短歌と出合ったのは大学時代、ほとんど偶然であった。その関わり方は、どちらかといえば淡白であり、「人」短歌会発足に参加するまでにも六、七年の空白期間を置いている。その後も、短歌を自分自身の表現型式として確認するまでには、少なからぬ逡巡の時間を費したように思う。
それがここ二、三年、さして疑問もなく関わってきた短歌というものを、何か得体の知れない無気味な、それでいて限りなく魅かれる存在としてしきりに意識するようになった。何気なく踏み入れた脚が、思いがけなくずぶずぶと沈みこみ、やがて体ごと引き入れられてゆく底無しの沼自分自身のみならず、時には周囲の人々をも巻き添えにしかねない存在だと思えてきたのである。
そして同時に、日常の現実が狭ければ狭いほど、重たければ重たくなるほど、私自身の歌の世界をかけがえのないものとして考えるようにもなってきている。
「歌は本来憎しみの声ではなく……愛の声であり、怨念ではなく、浄念だと思ってきた」とは、ある歌人の、私の好きな言葉である。けれども、今の私にとってこの言葉はほど遠い。憎しみの声も愛の声も、怨念も浄念も、その他もろもろの一切を抱えこんだところから、喘ぎ苦しんで歌を生み出している現在なのである。これは当分の間続くに違いない。
短歌を自らの表現型式として撰んだことへの覚悟と言うような、大それたものではない。ただ、もう今さらひき返しようもなく、それでは体ごと歌という底無しの沼に引き込まれるまでやってみるほかはないという、一種の居直りのような気持ちがあるだけである。歌に向っての私のほんとうの出発は、ただ今これからだと思っている。
(「あとがき」より)
目次
・誰か呼ぶ
- 誰か呼ぶ
- しなやかな闇
- しろがね幻野
- つぶらざる眼
- 夏の背
- 逆髪の時
- 風に発つ
- 正体は何
・明日の寡黙
- こゑ聴こゆ
- 草の熱
- またく盲ひよ
- 樹に寄りわれは
- 風の坂
- 花の明るさ
- 青き発条
- 鬼百合
- つねに崖
- 明日の寡黙
・きれぎれの夢
- きれぎれの夢
- 苦しき部屋
- 花冷え
- 風の方位
- 藍ふかき水
- 一夏
- 落剥
- 闇を抱く
- 魂も紛れよ
- 胸のうへに
- 雪はげしかれ
- 踏みいだす脚
・とうめいの枷
- とうめいの枷
- あぎとふばかり
- 北向けば
- 氷の源
- 片側の街
- 冬の眠り
- 縛らるる意志
・胎の冥さ
- 空白の季
- 壜の輪郭
- ユッカラン
- きさらぎの水
- 冷えこもる厨
- 胎の冥さ
あとがき