2015年3月、花神社から刊行された高田邦雄の第2詩集。
初めての詩集を上梓してから四年が過ぎた。
母・敏子の詩作に対する姿勢を身近に見てきた私にとって、彼女の生存中に詩を書く事など恐ろしく、とても出来る事ではなかった。
そのため、私が詩を書くようになったのは一九八九年の五月に彼女が胃癌で亡くなった後、詩誌「野ばら」の同人に誘われてからである。それでも詩を書くに際し、常に母・敏子の厳しい眼差しが付きまとっているように感じ、本名での発表を躊躇し架田仁緒(カダニオ)というペンネームを使ってきた。
四年前にまとめた詩集『寒月の下に』は架田仁緒の名前で、主として「野ばら」に発表してきた作品であったが、まさにその印刷・製本の最中にあの東本大震災が起き、三か月も発行が遅れた。そして二〇一一年六月発行の詩集にもかかわらず大震災に関した作品が一作品も掲載されていない詩集となってしまった。
今回の詩集『ぺらぺら』には、その東日本大震災に何を思い何を感じたかを是が非でも入れたかったし、原子力発電事故にも積極的に触れる作品を載せたかった。
昨年は敏子の生誕一〇〇年を記念した展覧会と集う会が賑やかに開催された。その折、来賓としてご列席くださった敏子の詩友である新川和江先生に詩集の跋文をご依頼させて頂いた。
新川先生は多くの方々からの同様な依頼をお断りしていて、「高田邦雄の詩集ならともかく架田仁緒の詩集に跋文を寄せることは出来ない」とのお言葉であった。
ここ二年くらい改めて高田敏子の詩を読み返す事が多く、その度に詩人・高田敏子の作品に感銘を受け、いよいよ高田邦雄の本名での創作活動に自信が持てずにいた。
新川先生から本名での出版を促された事を契機に、ペンネームでの作品発表には何処か「甘え」と「逃げ」があったのではと気付かされた。
多くの先達の詩人たち、母・敏子の詩友であった安西均・菊地貞三・伊藤桂一等々の作品に肩を並べられる作品を高田邦雄の本名で発表したいと思っていた。それが大きな間違いだと気付かされたのだ。
「上手な詩は作るな、人の評判を気にするな」と敏子は言う。
先達詩人と肩を並べる作品を創ろうとは、詩を作る姿勢として全くいただけない不純で不遜な創作姿勢である。
人はどうであれ、自分が表現したいから表現するのであって、その表現の価値をあらかじめ推し量る事は創造と矛盾する事であろ。
、自分が表現したい事があり、自分でしか表現できない言葉があり、自分らしい感性の中に組み上げられた作品、それで良いはずだ。
結局のところ、私の詩人としての二十五年の歳月は、高田敏子というビッグネームからの脱却の歳月であり、架田仁緒というペンネームからの解放に必須の時期だったと言えよう。
(「あとがき」より)
目次
その一 海坊主がやって来た
- きっと蝶になれ
- これからは……
- 欺瞞の風景
- 海坊主がやって来た
- 寂莫と雪が降る
- 薄情者
- 山は青き……
- あてなどないけど
その二 朧の風景の中に
その三 今夜もまた
- 雲が湧いてくる
- 一緒に踊ろう
- ピカドン
- 湿った風塊
- 覚悟はあるか
- 足るを知れば……
- 亡者の行進
- 檄文
- 寝言いう猫
- 今夜もまた
- ぺらぺら
跋 新川和江
あとがき