夏鴉 澤村斉美歌集

f:id:bookface:20200914091700j:plain

 2008年8月、砂子屋書房から刊行された澤村斉美の第1歌集。付録栞は米川千嘉子「生き生きと意外性ある立ち位置」、島田幸典「時間が人を」、花山多佳子「新たな価値へ」。塔21世紀叢書第103篇。

 

 第一歌集『夏鴉』には、二〇〇〇年から二〇〇七年初夏までに作った短歌のうち三二六首を収録した。年齢でいうと二十歳から二十七歳にあたる。一九九九年四月に短歌を作りはじめ、二〇〇七年初夏の時点で手元には九百五十余首の歌があった。そこから自選した結果である。章立ては制作時期の早い順に、Ⅰ((〇〇~〇五年初夏)、Ⅱ(〇五年夏~〇六年初夏)、Ⅲ(〇六年夏~〇七年初夏)とした。ただし、各章の中では、制作の順にとらわれずに自由に構成している。第五十二回角川短歌賞「黙秘の庭」は第Ⅱ章に収めた。
 短歌を作りはじめて今年は十年目になる。昨年九月に大学院を中退して就職したのだが、そうした実生活上の変化への欲求と、作歌上の変化への欲求は時期を同じくして生じてきた。生活にせよ短歌にせよ、自分で作ってきた「かたち」に疑問がわき、そのかたちを客観的に見たくなった。
 生活は、たいへんな勢いで新しいかたちを作りつつある。先日結婚したことも変化の一つだ。まだ引っ越しをしておらず、私は引き続き、学生のときから九年間住んできたマンションの一室で暮らしている。短歌については、ここ数年の「かたち」を整理しようとすれば歌集になるが、生活の「かたち」はこの部屋を去ればあとかたもなくなり、触れられなくなる。キッチンの流しの高さや、ドアのノブの感触、ふとんの位置、窓の光の加減、洗面所までの慣れた足どり。こうした生活の細部や感覚は記憶となって身体に残り、しだいに薄れていくのだろう。こんなふうに生活は、一瞬一瞬が濃密であるが全体としてみればはかなく、そのただ中にある自分はおぼろげだ。そんな自分とは別に、生の痕跡をくっきりと残していく短歌作者としての「私」に出会えたことを幸福に思う。
 何年も前、今の私より何歳も若かった先輩の水野扶美さんが「今しか歌えないことって本当にあるんだから」と話されたことがある。最近になって、「本当にあるんだから」と言った水野さんの心の張り方を思う。創作の原点として、表現の美、修辞の工夫、新しい文学性をもとめる気持ちは変わらずに持っていたい。だが、いま私が確かに自分の手に握っていると感じられるのは、「いま」を全力で歌うということぐらいだ。短歌史というストーリーや同時代という文脈からは逃れようもないが、私は一首一首の歌によって、「私」固有の「いま」を立ち上がらせようと思う。

(「あとがき」より) 

 
目次

  • しろじろと透く
  • 夏休暇
  • 年譜を奥へ
  • 缶コーヒー
  • パン種
  • 春の蚊
  • 腕は伸べられる

  • 山小屋
  • 肌色の花
  • 黒馬
  • ムルソーのまなざし
  • 桜木
  • 覆はれる
  • マンゴー栽培
  • ひからざる
  • 天満宮

 

あとがき

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索