雑草 山田多賀市

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 1974年3月、東邦出版社から刊行された山田多賀市(1907~1990)の長編小説。装幀は一の宮慶子。著者は長野県堀金村(現・安曇野市)生まれ。1943年、「肺結核で死去した」として、死亡診断書を偽造し徴兵忌避したことがある。

 

 貧農の子に産れて貧しく育った私は、農民解放を志した。農民運動に参加して病にたおれ、作家に転身したが、戦争で中断し、戦後は文化団体を組織した。
 瓦礫と空腹の中で文化運動を押し進めているうちに、政治も文化も空っ腹ではダメだと 思い至り、農業技術を向上させて、食糧増産をうったへる運動を起す手段として、農業技術雑誌の発行を企てた。雑誌発行では全国に支局をおいて、山梨県を中心に、月刊十五万冊発行を十年近くつづけた。
 その結果は、農地は耕やさずにペンペン草を生やせば、補助金を出す政治が行なわれ、国民の総白痴化がすすめられるようになった。我が身辺をかえりみると、作家としてロクな作品一つ残せず、やらなくてよいことに情熱をかたむけて、馬齢を重ねたことになる。
 余生は、一文一銭の合力に生きる乞食の心境で、口をつぐみ、ペンもすて、街の片隅へ出て、日本一小さな印刷屋をひらき、通りすがりの人の注文を受けて働らくことにした。
 この私の過去を引き合いにだして、女房さんはお叱りになる。叱られて考へてみると、私は女房の為を思って、社会運動をしたことは一度もない。農業雑誌を発行した頃は、一億ばかり資産も出来たが、一文余さず、使ったり損をした。残しておけば……と、女房さんは云うのだが、持ちつけないものは身にもつかん。労働の習性が身についた体は、薄いセンベイ布団に寝て、働らいていないと体の調子が悪い。
 道草を食わず作家の道を一筋に歩いてきた熊王徳平は、唯一の好敵手だった私を刺激し、もう一度、作家に復帰させようとして、一ヶ月に一度、多い時は三度もやって来て、「ペンを持て」と、云うのである。
 私を小説の材料にしたり、「俺は傑作を書いたぞ、これを見ろ……」と、云って、書評や自分の写真の載った新聞など持ってきて見せびらかし、著書をくれ、原稿料を手にすると私を料理屋へ連れだして、文学論をぶっかける。熊王はその道一筋に十五六冊の著書を持っている。
 あおられても奮起もせず、感動もしないが、長い間には引っかかる時もある。熊王には考へも及ばない時代的な材料で、三百枚ばかり書いて見せると「こりゃ好い、傑作だ」と、云って、さっそく名古屋の小谷剛のところへ送り、「作家」の同人に推薦したばかりでなく、それまで熊王が「作家」の県支部長をしていたのを、私に押しつけてしまった。
 頑健だった私の体も、六十を越へると、さすがに老いを感ずるようになった。どう計算しても余生の方がみじかい。人生の道草を食って馬齢を重ねたが、それだけに書き残しておきたいこともないではない。
 そんなつもりで書き初め、「作家」へ一ヶ年連載してもらったのが、これだ。小谷剛を初め、世話人の諸君も親切にめんどうを見てくれた。
 連載が終ると熊王は、東邦出版社へ持ちこんでくれたのであった。
 東邦出版社の藤山さんが、三度も甲府までわざわざ来てくれて、出版してくれることになったのである。
 人生にスネてしまって、感動も感激もすり切れた私だけれども、この人達の心温まる真情の前には、胸打たれずにはいられない。だまって頭をたれるのみである。
(「あとがき」より) 

 


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