どんぞこで歌ふ 根岸正吉 伊藤公敬

 1992年5月、古河三樹松の私家版(上州復刻版)として復刻された根岸正吉/伊藤公敬の詩集。底本は1920年発行日本評論社出版部版。

 


特異なる二個の人物

此の集の著者根岸正吉君が私の家に遊びに来てゐる時、其の姓名だけを云つて他の来客に紹介すると、『其の来客は大抵、『ア、そうですか』と至極冷淡な、通り一遍の挨拶をするが、『昔し「新社會」に詩を載せたN正吉といふのが此人です』と云ふと、『アッ、あなたがソウですか」と、忽ち其の挨拶が意氣込の違った熱心な者になる。彼が工場生活の間から發したウメキ聲は、それほど深い印象と感銘とを我々のグルーブの多くに奥へてゐるのだ。彼は其後少し健康を損じて、今は會社の事務員といふ平凡な職業に就いて、滅多に詩も作らないようだが、其代り彼は今、殆んど一身の全力を注いでマルクスの英譯本など読んでゐる。彼が若し此次に新らしい著作をする時があるなら、それは詩にしても、他の種類の文章にしても、必ずズット違った者になるだらう。又著作以外、彼れの言論行動は必ず大きな影を社會に投けるだらう。と私は信じてゐる。そういふ未来を持つてゐる彼れの此の詩集は、單に工場生活のウメキ聲としてばかりでなく、一個の有力なる社會運動者の産聲として特殊の意義と趣味とを持つてゐるわけである。
此集の今一人の著者たる伊藤公敬君は私の直接に知つてゐる人ではないが、横濱に於ける我々のグループでは久しい前から善く知られてゐる人である。彼は初め印刷工として指四本の肉税を拂ひ、後ち又、波止場人足として起重機の上から落され、今では歩行の困難を忍んで勞働してゐるといふ。彼れの歌はそういふ生活の間から歌ひだされ、そして人さし指の残存してゐる部分と親指との不自由な働きに依つて書き現はされたものである。
私は詩歌において門外漢である。此の集の詩としての價値を云々し得る者ではない。只だ我々のグループに於ける断ういふ二個の人物を世間に紹介するの機會を得た事を大いなる光楽とする者である。


大正九年四月
電車ストライキ惨敗の報に接した日
堺利彥

 

目次

  • 赤い實
  • 鶏が鳴く
  • 薔薇の棘
  • 醜い僕
  • 波止場がらす
  • 工場哀歌

解題目次

Ⅰ 回想のN・正吉――人と作品

  • 私の「どん底で歌ふ』伊藤公敬の回想をめぐって 伊藤信吉
  • N・正吉さんの印象 〔写真〕『新社会』表紙 近藤真柄
  • ひとつの詩集をめぐって 復刻に当って(近藤東) 近藤東
  • N・正吉の妹 あとさきの思い出 (伊藤公敬) 岩藤雪夫
  • 先輩・根岸正吉のこと N・正吉の家系 (小山和郎) 小山和郎兄、N・正吉のこと 古河柳
  • どん底で歌ふ』とその先駆性 西杉夫

Ⅱ 根岸正吉資料

  • 緒言
  • 根岸正吉の詩と「どん底で歌ふ』 

・資料1 「どん底で歌ふ』未収録詩 丸田淳一

  • 貧民 
  • 餌を漁りて 
  • 盲の行列 
  • テロリスト 
  • 此門アケてと 
  • 足尾の女房達 
  • 不思議な世界と人

・資料2 評論およびルポ

  • 貧弱なる労働者
  • 伊太利の社会運動(伊井敬)
  • マラテスタに就て――伊井君の教を乞ふ
  • 国際非軍備主義大会に就いて
  • メーデーの記

・資料3 翻訳

  • 労働者の対話(エンリコ・マラテスタ)
  • ロシア観――牢獄のマラテスタより

・資料4 根岸正吉の死について

  • 個人消息 
  • 根岸正吉君の死 
  • 正吉の死(C・W生)
  • 夢に叫んだ彼(鹿島喜久尾)
  • どん底詩人N・正吉の死(後藤謙太郎)

Ⅲ 年譜

  • 根岸正吉略年譜
  • 伊藤公敬小伝・略年譜-
  • 大正期横浜社会主義年表 斉藤秀夫

参考文献

あとがき


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