1956年10月、三笠書房から刊行された火野葦平(1907~1960)の短編小説集。装幀は藤岡光一。
作品を書く場合、私はいつでも自分にとつて大切なテーマを、自分に近い世界の題材によつて書きたいと考へてゐる。無論、まつたくのフィクションによる場合もあり、小説におけるフィクションの大切さも人一倍知つてゐるが、なんといつても眞實を裏づける實感は身近なもののなかにある。しかし、それがまた私小説になつてしまはないやうに気をつけ、虚構と現實との結びつきに間然するところのないやうに努めてゐる。しかし、これはいふべくして困難な文章表現の道だ。また、流行や風潮にはいつでも背を向けてゐたいと思つてゐるし、特に新奇なものを追ひたいと考へたこともなく、ただ地味に自分のものを守つてゐるだけである。といつて、古い殻にとぢこもるのではなく、すこしでも新しいものに眼をむけて説皮し、前進したい気持は強い。ただ、表面に浮いたところで、右往左往したくはないのである。
身近な題材をとると、モデル間題をおこしやすい。ここに集めた四つの作品は、どれにもモデルがあつたため、それぞれの意味で、厄介な問題を起した。しかし、現在なほ進行中の柿右衛門燒裁判のやうに、訴訟にまではならなかつた。柿右衛門燒裁判は昭和二十六年末にはじまり、足かけ六年越し、まだ解決にいたらない。裁判は閉ロである。しかし、裁判によつて大いに勉強になることはあり、いづれ解決の暁には「二人柿右衛門」といふ作品を書きたい意慾が動いてゐる。
「或る詩人の生涯」は、「群像」に発表されたときには「詩経」といふ題であつたが、今回あらためた。亡友淵上毛錢の一生を書いたものだ。これは登場人物を實名にしてあるから、大部分が事實による傳記のやうなものだが、やはり小説として構成し、かなりのフィクションを加へた。
「對馬守の憂骸」には、作者が第三者のやうに實名でノコノコ登場して、モデルは假名になつてゐる。しかし、これは地元の人ならすぐにわかる人物だし、對馬守のモデルにもつらい思ひをさせたやうだ。とはいへ、對馬守君がこの小説を護んで、對馬をすてる決心がついたといふ手紙をくれ、質際に、最近、福岡に移住して來て、新生を目ざしてゐるのは同慶に耐へないことである。この作品は「文學界」に郷土小説といふ名目で發表されたが、一種のルポルタージュ的要表をも含んでゐる。
「神の島」も、モデルに差し支へがあつて、島名や島の位置をぼかしてある。この小説は紳父の機嫌を損じた模様で、このキリシタン島を見學に行つた高校生の團體に向かつて、神父が、諸君は将来なにになつてもよいが、作家と新聞記者だけにはならない方がよいと、一場のスピーチをしたさうだ。私は無神論者で、なんの信仰も持つてはゐないけれども、キリスト敦に對しては強い関心と好意とを感じてゐる。カトリックにだつて悪意などは抱いてゐない。でなかつたならば、キリシタン博物館を作ることに懲中してゐる大分市長をモデルにした「ただいま零匹」はああいふ形では書けなかつたであらう。しかし、なほ、私はカトリックの戒律のあまりのきびしさと、その濁善的傾向に疑問を抱いてゐるので、「神の島」を書いたのである。これは「中央公論」に發表されたものだが、その後、このテーマに多少の讀物的要素を加へて書いた「銀三十枚」が、東賓で映畫化された。総天然色で、井口雅人脚色、谷ロ千吉監督、「裸足の青春」といふタイトルに變つてしまつたが、その中には、私の原作とはまるでちがつたドン・カミロに似た神父があらはれて大活躍をする。この神父を見て、また、モデルの神父が、映畫にもなるなといひはしないだらうかと、苦笑がとまらない。もつとも、モデルといつたところで、まるでちがつた人物に書いたのではあるが。
しかし、一番へこたれたのは「水」だ。私は現在、洞海湾汽船給水株式會吐の社長(といつも名目だけだが)をしてゐるので、この小説はいろいろ誤解を受けた。私の會社でも似たやうなお家騒動があつたし、地元では、作中人物やその行動がことごとく事實のやうに受けとられたのである。怒つてゐる人も出た。やむもなく方々に釋明したり、おわびをしたりしなければならなくなり、この機曾に、私は社長を難したいと申し出た。しかし、どうにか大したこともなくをさまつたが、とにかく、小説とモデルの問題はうるさい。私はまだ書きたい題材やテーマをいくつも持つてゐるが、モデル問題が面倒なので、まだ書かずにゐるものが多い。
自分の作品に解をする要もないことだが、はからずもモデルのある小説ばかりが集まつたので、思ひ出話を書いてみた。
(「あとがき」より)
目次
- ある詩人の生涯
- 水
- 對馬守の憂鬱
- 神の島
あとがき
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