冬来りなば 伊藤永之介

 1943年2月、錦城出版社から刊行された伊藤永之介(1903~1959)の長編小説。装幀は福田豊四郎(1904~1970)。

 

 この数年來私は農村の醫療問題に關するものを時々書いて来たが、本篇はそれに一應の締めくくりをつけるつもりで、筆を執つたものである。
 私がこの種のものに手をつける氣持になつた最初の動機は、ここにも顔を出してゐる久助といふ老人に對する興味からであつた。本名を久之助と言ひ、今は故人となつてゐるこの老人は、理屈では醫療組合の運動の何物たるかを解しない、所謂學のない人間であつたにもかかはらず、本能的にその気持を呑みこんでゐたらしく、醫療組合の診療所の仕事に、一身をささげて努力したのであつた。
 しかも、その診療所が閉鎖の憂目を見て間もなく、老人は死んだ。不幸な死を遂げて、誰にも知られずこの世を去った。ところが、老人の主である診療所の醫師が、それを聞いてはるばる村を訪ひ、曾て診療所のあつた川反に、老人の碑を建てた。その碑面には、その醫師が老人を追想するからいふ短歌が刻まれた。
 
 一もとの草は枯れつる川添の
 岸邊に種は春を待つらん

 そのことを短文に書き記したその醫師の文章を、偶然に自分の故郷の組合病院の機關誌で読んだ私は、この佳話とその老人の姿に強く動かされた。

 歸郷の途次、私は春雪の降りしきる日に、その村をたづね、曾て診療所の幹部であつた寺の住職や、事務員であつた人などに會つて、その老人の在りし日の面影をさがし求めた。しかしそこには、私の氣まぐれな好奇心を滿して呉れるやうな、變つたことがそれほどあるわけではなかつた。それを詮索するにしたがつて、私の心に大きく寫り出したのは、矢張その老人の主人であつた醫師の農村醫療に努力する姿であつた。日を經るにしたがって、私の心は専らこの醫師の方に注がれるやうになった。
 「醫者のゐる村」を書いたときには、しかしまだ私の興味は、その醫師に對すると同じ程度に老人の方にもかかつてゐた。したがつて作品の重心は、この両者の間をふらついてゐて、師を書いたものとしては物足りないものとなった。のみならず、短篇では書きつくせないものが多かった。その後も私は、農村の醫療問題に關するものを一再ならず書いて来たが、一度この醫師の一時代の姿を、全體的に書いてみたいといふ念願を打消すことが出来なかつた。
 幸にも、本篇ではその念願を、一通り實現することが出来たやりな気がしてゐる。さらにこの醫師のの一時期をも書いてみたいと心組をしてゐるが、一先づことで筆を擱いて、世の人の批判を乞ひたいと思ふ。
(「おくがき」より)


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