1971年9月、勁草書房から刊行された武内辰郎の第1詩集。装幀は佐伯義郎。母は詩人の武内利栄。
僕は詩を書きはじめてから二十五年あまりになる。もっとも、この間には十年近い<沈黙>の歳月がふくまれている。これが、僕の詩作の全過程である。そして、作そのものに即していえば、僕の過去はひもじく、いかにも痩せほそっている。が、とにかく、このほそほそとしたひとすじのみちは僕のものである。それは、僕のありふれた欲望や苦汁のいとなみからときはなたれ、おのずからなる思弁とリズムによって存在するものであり、ともあれ、十年に近い不毛の季節をこえて独自の機能を持続せしめてきたものである。
ちなみに、八年まえ、僕はある小冊子に次のように書いている。
「作そのものとしての過去を集約し、それを、おおかたに提示することで何らかの詩的展開のモメントを欲求する己れを検証したいという、切迫した焦燥を痛感させられたのだった。とはいえ、かかる私的な弁明は許されるであろうか。それは、確定的に許されぬであろう。|僕の十年の沈黙と停滞は、そのへ理由>の如何を問わず、僕の詩的ザインを追放しているといっていい。」(「失われた夜に)
このようなパトリエートの境涯から身を起し、僕が再び詩を書きはじめたのは、結核と診断された一九六三年秋のことだった。そして、一人住まいの一室から入院にいたる二カ月間は、文字通り、老残の苦杯を舐めねばならなかった。何かと気をつかってくれた若い友人の吉田・木村・浅見君等の友情がなかったなら、あるいは、あのように僕の闘病は順調にいかなかったかも知れない。ところで、十年におよぶ僕の沈黙や停滞とその真因は、詩人であった母利栄の晩年に微妙なかげりを投げかけたのであり、その一事が、いまなお、僕をつきうごかすのである。しかも、かような僕自身にかかわる事件やその真因を直接の題材とした連作詩「哭壁」(一五〇枚)は、あてどない薄明の彷徨の歳月に呑みこまれて紛失し、きわめて、特殊なアリバイの提出さえ不可能になっている(ただし、資料となる日記は手許にのこされている)。
それゆえ、再び書きはじめられた僕の詩は、その実在を一般的にたしかめえない、宿胸のごとき「哭壁」の尾根越しに投げだされねばならなかった。くわえて、病めるものの発想という一定の枠は、それらの作に間隙や亀裂をもたらしているかも知れない。その頃、病床の僕にとって詩を書くということは、不退転の双刃の発想にたつことであり、あわせて、「党内外に散在する自律」(埴谷雄高)への提案を実践的にうけとめ、これに、モドレをくわえることであった。――当時、病床を見舞ってくれた評論家の上田君に、文学と人間性の独自な視角という問題をだしたのは、このような発想からだったのである。そして、かような思弁とリズムは、その後しだいに補強され、きょうにひきつがれてきたのであった。
しかしながら、七〇年代に当面して僕は黙しがちであり、きゅうより明日への後のあゆみが、かかる詩的機能と現実総体との緊張関係や葛藤を通じて、このコースをどこまで延長できるか、どうか。――当代の錯綜する矛盾や解体や試行錯誤という、きわめて困難な、現実的な諸問題といかに相わたり、どのように打開のモメントをつかみうるか、否か。いまなお、未知数であり、混沌とした念怒のようなものが、二六時中、僕をとらえてはなさない。
(「あとがき」より)
目次
序文 野間宏
1失われた夜に
- 独語
- 海の見える草地
- かもめ
- 廃墟
- 八月の悲歌
- 氷雨
- 赤錆びた風景
- 失われた夜に
- ガラスの眼
- 火花
- その前後
- 揮話
- 後方で
2地の炎
3眼の墓の底におりたち
- 皮膚と対話と
- チャンチキオケサ・一幕
- 眼の墓の底におりたち
- 象徵
- 相対の状況と他者について
4歌(補遺)
- 無題
- 雨は血と焰にそそぐ
- 風
- 病床手控(抄)
制作・発表おぼえ書
跋文 佐々木基一