1981年8月、沖積舎から刊行された清田政信(1937~)の評論集。装幀は藤林省三。
批評を書くということは、何か深みへそれと知りつつ沈んでいくような感覚をともなう。それは暗い深域をくみあげるというよりは、その深域に全身で沈むことによってそれを所有しようとする不可避の衝迫に支えられて果される仕事だと言ってもいい。詩を一篇仕上げればうなだれて虚無を全身にしみわたらせる。ところが評論を一篇仕上げれば兇暴になり、街へ出て打ち倒されるまで酒が飲みたくなる。
操鬱病になってから十数年になる。病状はいっこうに快くならない。ただ精神の破産にいたらないように、思考に思考をかさねて、病いそのものを手なずける方法をあみだした。他者の悪意(私の思いこみかもしれない)に傷つくとき、どうにも鎮めがたい怒りがわいてくるけれども、それにひとつの距離ができてきた。渚に会った。他者との触れ合いで、傷ついても、というよりその傷によって深く渚の心域へ降りていけると思うようになった。長いこと街を歩いても人たちはこわばりの冷笑をうかべていたのに、今は距離がもてるほどに冷淡になった。はじめて無関心の並木を泳ぐように歩けるのだ。
巻頭の詩群はそんな私が、むき合う者を失って彷徨していた頃の作品だ。もうこんな灼けるような自意識の地獄を個体としてくぐり歩くことはないと思う。言うなれば信傲な意識の最後の表出といったところか。身体の病いと生活の不如意に挟撃されていたころだ。
波のわななく渚を考えている。拒絶とみまどう沈黙の冷却。それとむき合い私の悪意は芳香を放って熟れていくようだ。
一部の詩人論は私にその方法を教えたかもしれない。暴力を抑制して未知を発酵させる方法を。だがそれはどうしても情況との衝突によってねを上げる内視の方位をえらぶときしか準備されないものだ。二部の文章はそれらの内部へ向う研断にさいなまれて噴出した私の深域かもしれない。
渚をみつめている。拒否のうちにこわばりながらそのいやはてにうちふるえている。私はやっと南島の風土につきあたっているかもしれない。拒否と肯定にひきさかれるとき、渚ははりつめている。その半球の青に向って私はそれの暗さを深めることで均衡をたもつ。沈黙! それはほとんど言葉を発せずに、いやそれ故に心域の暗さを高みにおし上げる。三部の文章は、私のそんな思いを美意識以前において構想しようとした論作かもしれない。
(「あとがき」より)
目次
- 血縁紀行
- 黒田喜夫論Ⅰ 破局を超える視点
- 黒田喜夫論Ⅱ 歌と原郷
- 黒田喜夫論Ⅲ 沈黙の顕示
- 黒田喜夫と石原吉郎―風土と沈黙
- 谷川雁論―虚の力学
- 大岡信論―眼の受難
- 吉本隆明論―極限の抒情
- 清水昶論Ⅰ 肉感と喩法
- 清水昶論Ⅱ くきやかな走者
- 山之口獏論 その無名性と無償性
- 新城兵一論 その過渡性
- 流離と不可能の定着
- 詩における死者と行為
- 血液のメタフィジック
- オブジェへの転身
- であいについての考察
- 時代の軋みと二人の死者
- 詩的断想Ⅰ
- 詩的断想Ⅱ
- 詩的断想Ⅲ
- 詩的断想Ⅳ
- 村と愛に関する私記
- 時代の軋みと二人の死者
- 原境への意志
- 彷徨と覚醒
- わが詩法
あとがき