文学の中の病気 森田進

f:id:bookface:20220103120942j:plain

 1978年3月、ルガール社から刊行された森田進(1941~)の評論集。

 

 『文学の中の病気』にとりくんで、あっというまに二年間がすぎました。始めてみてびっくりしたのは、明治以後に限っても膨大な資料の海なのです。時には溺れそうになりながらも、その中から手に入りやすく読みやすくしかも問題が鮮明に浮かびあがってくる作品を選び上げました。選び上げる時の私の立場は、第一章の「文学と医学と宗教との接点」にまとめてあります。その次に、それらが多くの方々との共通の問題になりうるか否かを確認するために、看護学校で何回も読書会をしました。そこで与えられた多くの意見をもう一度検討し直してから執筆しました。
 ただし、こうしてできあがったものを見渡しますと、どうして取り上げなかったのかと悔まれるものもたくさんあります。たとえば、黒島伝治の戦争と貧困と病気の問題、三島由起夫の『金閣寺』における美と障害者との関係、あるいは島尾敏雄の〈病妻もの〉といわれる凄まじい人間記録などです。
 この本を書きながら気がついたことは、重大な先鋭的な病気ほど、なかなか小説にしにくいのではないかということでした。現代の水俣病イタイイタイ病サリドマイドなどの公害病、あるいは筋ジストロフィーなどと、小説家がとりくむためには相当な覚悟がなければできないでしょう。この点で、水上勉の『くるま椅子の歌』は現代文学の貴重な収穫であると私は考えています。こういう先鋭的な病気に関しては、むしろ詩人たちのほうが直截的に激しく切り込んでいます。けれども現段階では、なんといっても患者さん自身あるいはその周辺の方々の書いたものにもっとも重さがあるといえます。こんご文学者がどのようにこれらの病気を想像力の中に組み入れて秀れた作品を産み出すか、期待せずにはいられません。
 それから、この本には、『少年死刑囚』と『蔦の翳り』という社会的な犯罪を扱ったものもとりあげました。病気の概念規定という点では、問題が残るでしょうが、人生にいちどきに目ざめてしまう少年時代に、何が欠落していたのかを明らかにしたかったからです。
 もし機会があれば続篇を書いてみようと思います。また「日本の古典文学の中の病気」や「外国文学の中の病気」についてもまとめてみようと思います。
 この本の内容に関しては、久保紘章氏(四国学院大学社会福祉学)および国立善通寺病院看護学校、国立小児病院看護学校の教員と学生のみなさんから貴重なご意見やご援助をいただいたことを感謝します。また、清書にあたっては、渡辺和歌子さん、香川博子さん、田口泉さんに、第二十三章「詩歌に現われた病気」では、木村一仁さんに収集のうえでお手伝いしていただきました。
 この本が、看護学校や医療従事者の方々に広く読まれて、厳しいご批判をいただければ幸いです。最後になりましたが、出版をすすめてくださったルガール社の山崎俊生氏に心からお礼を申し上げます。
(「あとがき」より)

 


目次

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索