1978年3月、ルガール社から刊行された森田進(1941~)の評論集。
『文学の中の病気』にとりくんで、あっというまに二年間がすぎました。始めてみてびっくりしたのは、明治以後に限っても膨大な資料の海なのです。時には溺れそうになりながらも、その中から手に入りやすく読みやすくしかも問題が鮮明に浮かびあがってくる作品を選び上げました。選び上げる時の私の立場は、第一章の「文学と医学と宗教との接点」にまとめてあります。その次に、それらが多くの方々との共通の問題になりうるか否かを確認するために、看護学校で何回も読書会をしました。そこで与えられた多くの意見をもう一度検討し直してから執筆しました。
ただし、こうしてできあがったものを見渡しますと、どうして取り上げなかったのかと悔まれるものもたくさんあります。たとえば、黒島伝治の戦争と貧困と病気の問題、三島由起夫の『金閣寺』における美と障害者との関係、あるいは島尾敏雄の〈病妻もの〉といわれる凄まじい人間記録などです。
この本を書きながら気がついたことは、重大な先鋭的な病気ほど、なかなか小説にしにくいのではないかということでした。現代の水俣病やイタイイタイ病やサリドマイドなどの公害病、あるいは筋ジストロフィーなどと、小説家がとりくむためには相当な覚悟がなければできないでしょう。この点で、水上勉の『くるま椅子の歌』は現代文学の貴重な収穫であると私は考えています。こういう先鋭的な病気に関しては、むしろ詩人たちのほうが直截的に激しく切り込んでいます。けれども現段階では、なんといっても患者さん自身あるいはその周辺の方々の書いたものにもっとも重さがあるといえます。こんご文学者がどのようにこれらの病気を想像力の中に組み入れて秀れた作品を産み出すか、期待せずにはいられません。
それから、この本には、『少年死刑囚』と『蔦の翳り』という社会的な犯罪を扱ったものもとりあげました。病気の概念規定という点では、問題が残るでしょうが、人生にいちどきに目ざめてしまう少年時代に、何が欠落していたのかを明らかにしたかったからです。
もし機会があれば続篇を書いてみようと思います。また「日本の古典文学の中の病気」や「外国文学の中の病気」についてもまとめてみようと思います。
この本の内容に関しては、久保紘章氏(四国学院大学、社会福祉学)および国立善通寺病院看護学校、国立小児病院看護学校の教員と学生のみなさんから貴重なご意見やご援助をいただいたことを感謝します。また、清書にあたっては、渡辺和歌子さん、香川博子さん、田口泉さんに、第二十三章「詩歌に現われた病気」では、木村一仁さんに収集のうえでお手伝いしていただきました。
この本が、看護学校や医療従事者の方々に広く読まれて、厳しいご批判をいただければ幸いです。最後になりましたが、出版をすすめてくださったルガール社の山崎俊生氏に心からお礼を申し上げます。
(「あとがき」より)
目次
- 第一章 文学と医学と宗教との接点
- 第二章 森鴎外『高瀬舟』 安楽死
- 第三章 北条民雄『いのちの初夜』 生の復活を求めて
- 第四章 堀辰雄『風立ちぬ』 結核と愛の行方
- 第五章 遠藤周作『海と毒薬』 生体解剖と人間の尊厳
- 第六章 原民喜『夏の花』・井伏鱒二『黒い雨』 原子爆弾とヒロシマ
- 第七章 太宰治『斜陽』 アル中と麻薬と自殺
- 第八章 井伏鱒二『本日休診』 開業医の役割
- 第九章 藤本義一『胎児冷笑』 堕胎と一卵性双生児
- 第十章 筒井康隆『コレラ』 国際伝染病と文明
- 第十一章 北杜夫『奇病連盟』 私が私であること
- 第十二章 阪田寛夫『土の器』 癌との戦いと信仰
- 第十三章 山崎豊子「白い巨塔』 医事紛争裁判と医師の倫理
- 第十四章 なだいなだ『レトルト』 精神科医と愛
- 第十五章 岸田国士『暖流』 病院経営と看護婦の恋愛
- 第十六章 渡辺淳一『花埋み』 性病と日本最初の女性ドクター
- 第十七章 中山義秀『少年死刑囚』 犯罪と救い
- 第十八章 杉本研士『蔦の翳り』 医療少年院の青春
- 第十九章 有吉佐和子『恍惚の人』 老人性痴呆と献身
- 第二十章 水上勉『くるま椅子の歌』 障害児と施設
- 第二十一章大江健三郎『ピンチランナー調書』 脳障害児の息子による地球の救済
- 第二十二章 吉村昭『神々の沈黙』 心臓移植と生命
- 第二十三章 詩歌に現われた病気