抒情小曲論 伊藤信吉

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 1969年11月、青蛾書房から刊行された伊藤信吉(1906~2002)の評論集。装幀は串田孫一

 

 私の手もとにある上田敏の訳詩集「海潮音』は、表紙の背皮がぼろぼろに傷んでいる。小型本の室生犀星の『抒情小曲集』は、紙の表紙なので傷みがいつそうひどい。『藤村詩集』や佐藤春夫の『純情詩集』はどこかへ失つてしまつた。それだけ歳月が過ぎたのである。私の年齢とともに詩の歳月が過ぎたのである。そして過ぎた時間はふたたび戻ることがない。
 そんなにも年月を経たにもかかわらず、しかし昔のそれらの詩集の抒情が、ふたたび今日の私の情緒を揺する。とおい波の揺り返し。とおい海鳴りの呼声。これは懐古であり郷愁である。昔の歌を、入日の渚で聴く。私は老年の地点で青春の思いに揺りうどかされている。
 だが私はこの抒情小曲論を、懐旧の思いだけで書いたのではない。近代の詩人たちが遺したおびただしい量の抒情小曲について、これまで私は一度もまとまつた文章を読んだことがない。まとまつた抒情小曲論というべきものは、これまで誰も書かなかつたのではないか。北原白秋論や室生犀星論は書かれても、『思ひ出』や『抒情小曲集』をひつくるめての抒情小曲論は書かれなかつたのではないか。私のこの小論がその欠落を全的に埋めるとは思えないが、近代抒情詩の一環としての抒情小曲は、一度はまつとうな評価に値いする文学なのである。北原白秋の詩的業績から『思ひ出」を除外することができないならば、室生犀星の詩的業績から『抒情小曲集」を除外することができないならば、それだけでも抒情小曲を見過ごすことはできないだろう。
 これからの詩の世界で、抒情詩はどのような運命を辿るだろうか。私にそれを予測することはできない。過去にほろびた抒情小曲の生命は短かつた。しかし、これを近代抒情詩全般の中へ組入れてみれば、その生命は今も残つている。詩の時代的な消長は、多かれ少なかれそういうものであるだろう。
 過去を語ることで、私は懐旧の情に溺れているだろうか。たぶん、溺れているだろう。それにしても消滅した文学を語る「愚かしさ」は、その昔の年代を通つて来た者でなければ出来ないだろう。この抒情小曲論は、一つには私の抒情的体験の追憶であり、一つには近代抒情の系譜に触れるものである。
(「覚書」より)

 

目次

  • 抒情の消滅 追慕と愛惜と有羞と
  • 抒情の来歴Ⅰ 『海潮音』をめぐつて
  • 抒情の形成 北原白秋室生犀星
  • 抒情の来歴Ⅱ あたらしい韻文意識
  • 抒情の伝統 短歌と変革的抒情
  • 抒情の変質 同時代の詩人たち
  • 抒情の回想 私的な付篇として
  • 抒情詩篇

覚書


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