黄土の風 坂本つや子詩集

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 1990年8月、花神社から刊行された坂本つや子(1926~)の詩集。第24回小熊秀雄賞受賞作品。著者は東京生まれ、1938年に渡満。刊行時の住所は足立区西新井。

 

 母と娘が、この世の悪意と善意をきっちりと二等分し、一つの計算違いもなく天から分けもたされる――ということが時にはあるのだ。坂本つや子の、安っぽいドラマの脚本にすら滅多にないような波乱の半生は、そのためにもたらされた。
 この詩集にまとめた満州における六年ほどの記録は、彼女の母親が自分の生活をうるおすために、十三歳の娘を養女という名目で料理店の夫婦に売り渡したことから始まる。
 美貌と才気を見初められて男爵家に嫁いだ彼女の母は、夫が早逝するのと共に家を追い出される。当時としてはおきまりの困窮生活が待ち受けているが、贅沢をする以外生き甲斐のなかった母は長女であった坂本つや子をすぐ古本屋の住み込み店員として働きに出した。縁日の夜は古本の包みを背負って出かけ、アセチレン灯の下に本を並べて売る、という生活である。そしてもっと割のよい金銭が母親に与えられたのが満州行だったのだ。十三歳の少女は未だ女として役には立たなかった。それが彼女には幸いしたのだが、苛酷な労働は詩篇に書かれた以上のものだったに違いない。昭和十九年戦火の日本へ逃れ帰った彼女には、また母と幼い兄弟を養う義務がのしかかる。人のために何かをすることが大嫌いだという母は、娘を文選工、製本工、女中、行商とあらゆる職業につかせることになった。
 終戦近い呉で彼女はやっと海軍港務部主計課へ就職。八月六日朝、広島への出張命令が都合により取り消しになる。その日原爆投下。あやうく難を逃れたわけだが、その九月、呉市を襲った山津波のため生埋めになる。この時受けた身体への打撃は終生彼女を苦しめる。現在の彼女が背椎の痛みや歩行困難、多発性神経炎といった病苦を背負っている原因である。彼女が病臥している間に、母親は娘の退職金を持って東京へ。田舎暮しなど真平だったのだ。
 一文無しの彼女は足をひきずりながら再び働きにでるが、ある日、友人がビストルブローカーの仲間に入って検挙された。身柄引き受け人として出頭した彼女は英語が分らないため女通訳の理不尽な侮辱に耐えねばならなかった。切なさのあまり、一念発起。英会話の独学を始める。十円の英会話早わかりのカタカナカードとラジオ(進駐軍向けの放送)が彼女の教師だった。昼は店員、夜は焼跡整理の人夫として働き、メチールとタバコを覚えながら学んだ英語はしかしのちの日、彼女を立派な英語教師に仕立てる。英語ができれば安泰な生活の保証される時代ではあったが彼女には絶え間のない母からの「金送れ」の手紙がつきまとい、一時も彼女を休ませることがなかった。悪性貧血と栄養不良が彼女をいくたびも失神させ、まともな仕事は長続きしないのだ。しめっぽい苦労談が嫌いなこの女性は、苦役が押し寄せるたびに勇敢になり、ひたすら働き、恋をし、絵を描き、時に詩のようなものを書いた。
 こんなこともあった。ある日母の幾人目かの夫だという男がやってきた。「この人の指示に従うように」という母からの手紙を携えて。男が彼女をつれていったのはいわゆる売春宿であった。母と男は幾日かを贅沢に暮すために娘を売春婦として売ったのだった。母親に比べれば宿の主人のほうがずっと人間味があったことが彼女を危く救った。
 彼女は初めて母親に絶縁状を送る。その頃母は天理大学の学生で、折しも優秀な成績で卒業するところであった。母親が娘に要求してきたのは手切金十万円。この血の出るような十万円で彼女が購ったのは、自分の卒業証書を入れる西陣織の筒だったそうである。私が知り合った時の坂本つや子は、かつて彼女が英会話を教えていた一橋大学の学生さんと結ばれ、生れて初めてといってよい安らかな日々の中で紙人形を製作していた。彼女の生きざまを深く尊敬することで結ばれた十九歳も年下の夫君は、また彼女にとってかけがえのない大切な存在である。この生活だけは母によって傷つけられたくないというのが彼女の切望であったのは想像に難くない。
 初めに書いたように他人のために役立つことが嫌いなこの女性は折角の卒業資格も何一つ使うことなく、数年後民生委員の世話を受けて死去する。最後に立ち合った娘は母親に言った。
 「あなたは生れて以来、いっさい世のためになることを拒んだ。害毒だけを流し歩いた。せめて死んだ後だけでも世の役に立つよう献体をしなさい」
 そしてそれはその通りになった。母と娘の物語はこれで終りである。
 詩集には跋文も、およその場合あとがきも不要であるというのが私の持論なのに、最も顰蹙を買いそうな私事にわたることを、私は長々と書きつらねた。それは坂本つや子の詩集に限って、その作品の裏打ちになっているその半生がどうしても必要であると信じているからである。この半生記の大半のことは彼女の第一詩集のあとがきを参考にした。なぜなら彼女の、全ての創作の中に、このあとがきが水脈をひき、生き生きと輝いているのが私には見えるからである。
 彼女の全ての詩、紙人形、そのどれも、このあとがきの一節と共にあることによって私には価値あるものである。それは彼女にとってはあるいは賞め言葉とはならないのかもしれない。しかしある一節がいつまでも人の心の中で美しい光を保っているというのは詩人にとって何よりの幸福と思い、私の少々偏りすぎた坂本つや子讃を深い友情の一端を思い許されて欲しい。


 ――私は〈朗らか部隊長〉という呼び名の如く、ひとを笑わせるのが特技であった。私のポケットには、ドンキホーテとピーターパンが入っていた。はじめての母への送金は二円五十銭。私は十三歳だった――
 詩集『虫歯のなかへ』あとがきより


 ふりむくと、苦役の果にすらこの世の汚れに染ることのできなかった彼女が、十三歳の少女のまま笑いかけてくるのに私は驚く。
 詩的な技術も修辞もついに寄せつけなかった彼女の詩が、太く、真直に私の内へつき進んでくるのにたじろぐ。
(「坂本つや子補遺/小柳玲子」より)

 

 人には忘れてしまいたい時間があるらしい。私の十代もそうだった。満州(現中国)は遠く、今はない幻の国であり、何を今更と言う気が多分にあった。しかし戦争を知らない世代の友人から、特に良人から書くように切望された。

 自分の生き様を書く等、考えてもいなかったが、背を押されるように、私の唯一の発表の場である詩誌「言葉」で書きはじめ、六年がすぎた。書き継いでゆく途中から忘れていた事柄が次々に、私に発言しだした。その時から、どのような形にしろ書き抜いてしまわなければ、一人の人間として、そうしなければならないのでは、と感じるようになった。
 ほとんどが、ノンフイクションでしか書けなかったが、次第に、あの広大な幻の大陸満州の小さな村は、私の内部の母なるもの、原風景に近いものであったと思えてならなくなった。そして、むしろ忘れてはならない時代だったのかも知れないとさえ―。十代の少女の未熟な視点から見た大人達がつくる昭和十年代は、理解し難く、それ故に、一層恐しい世界であった。
 ここに『黄土の風』をまとめ、私の戦後は終ったと思ったが、吐息の果にまだ終っていないのを知った。敗戦の日からの二十代が次の課題として眼前に立ちはだかっている。逃げるわけにはゆかない。更に気の重い作業になりそうな予感がする。
 小柳玲子氏には『黄土の風』出版にあたり多忙ななか、大変お世話になったことを心から深く感謝申上げたい。
(「あとがき」より)

 

目次

  • 大陸
  • 毛皮売り
  • 憲兵
  • 零下37度
  • 地平線
  • 紀元二千六百年
  • 二季の人
  • 風土病
  • 黄土の風
  • 蒙古風
  • 中隊長
  • 白い蝶
  • 新しき村
  • お歌ねえさん
  • ひまわりの種
  • 傷のある顔
  • 老酒
  • ピアニスト
  • 帰国・その一
  • 帰国・その二

 

坂本つや子補遺 小柳玲子
あとがき

 

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