潮みどりの生涯 深井美奈子

 1991年12月、短歌新聞社から刊行された深井美奈子による潮みどり(1897~1927)の評伝。潮は歌人・長谷川銀作の妻。

 

 潮みどりの名前は、一般的には余り識られていないようである。その原因が三十一歳にして早逝した為か、或いは本名の太田きり(後に長谷川桐子)とかけ離れたペンネームを用いたためか、とも角、その活躍した時代の前後を記憶している人びとも、ごく一部に限られていると思うし、彼女を知る大方の人びとも、既にこの世を去っていると思われる。
 私自身にとっても、学生の二十歳頃に潮みどりの資料に出会ってから現在に至るまでの、三十有余年の月日が遙かにすぎ去ろうとしている。
 昭和三十一年足利市の高校を卆え、上京と同時に実践女子大学國文科に入学、当時所属していた「創作」社の長谷川銀作先生の門を敲いた。作品が少し纏ったら持参して教えを乞うこと二年の月日が流れていた。
 その日も確か暑い夏の頃で私は銀作先生と対いあって坐っていた。歌作の傍ら、卒業論文のテーマの提出に悩んでいた私に、先生はつと立ち上って隣りの部屋から、種種の資料やアルバムを運んで来られた。
 「あなたに私の亡くなった妻、潮みどりのことを書いてほしい。あまり識られていないだけに、よいものが書けると思いますよ……」
 と汗をふき拭き、先生は頬を紅潮させて少年の眸のような、特徴あるあお黒く澄んだまなざしを私に向けた。田舎出の少女趣味の域からでない短歌ばかりを詠んでいた私にとって、まさに青天の霹靂であった。勿論、文章の道もおぼろ氣に拙い私に、もったいないと言おうか、有難いお言葉といおうか、すっかり恐縮してしまったが、早速その夥しい資料をお借りすることとなった。
 その後二年の間に、潮みどりの生誕地、信州広丘村を訪ねたり、療養地安房白浜海岸に調査に行ったりした。そして昭和三十四年一月、「潮みどりの歌と生涯」が完成した。その黒表紙の私家版を、先生は手にとって御覧になり、五百枚の頁数を長い間かけて喰い入るように読んで居られた。そして心なしか、終章に近い臨終の記(「ひたきの声」銀作筆)をよみ返してのなみだ声で、次のように言われたと記憶している。
 「潮みどりのこの本、必ず世に出して日の目をみせてください。あなたきっと約束してくれますね。私の死後でもよいですから……。」
 力強く底ごもる、いまは亡き銀作先生のふりしぼった声が、いまもって胸底に響いて消えない。
 爾来、私は先生との約束を果し得ぬまま、こころ苦しい日日を送ってきたのである。その長谷川先生も昭和四十五年十月十三日に亡くなり、その夫人であるゆりえ先生も昭和六十一年二月五日に逝去された。
 そして今回潮みどりの同級生で、元小学校教員の小口静代さん(旧姓金井、松本市開智二丁目)の貴重な新資料を、長女の曲田芳子さん、ご主人の昭さんからお借りすることが出来た。かつての「潮みどりの歌と生涯」にこれを増補し、加筆できたことで琴のしらべに似たこころの舷響をそれぞれの境涯でうけ取めていただきたいと思う。
(「自序」より)

 


目次

自序

  • はじめに
  • 信州広丘村の生家
  • 若山牧水との出会い
  • 機織る乙女
  • みやまざくら
  • 田園歌人の出発
  • 銀作との恋
  • 若き日の夫妻
  • カナリヤねずみの家
  • 白浜の海
  • 晚年
  • ひたきの声
  • 死後
  • 結論

潮みどり年譜
参考書目録
あとがき


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