鴨跖草 中山省三郎歌集

 1972年5月、私家版として刊行された中山省三郎(1904~1947)の遺歌集。題字は小野成子。

 

『鴨跖草』について

 中山省三郎が亡くなってもう二十五年の歳月が流れた。敗戦の日を迎へていくばくもない昭和二十二年の五月三十日といふ日の悲しいその死の思ひ出は、その前後の暗澹とした世相の回想と交錯してまだわれわれの胸に生々しい。四十三歳であった彼が生きてれば今年は六十八歳。しかしその老の姿などを思ひ描くことはできない。私たちの網膜にあるものは永遠の青年省三郎の面影でしかない。その面影は年を経るにしたがっていよいよなつかしい。
 私が省三郎に会ったのは昭和四年、北原白秋の世田谷若林の家においてであった。彼はそのころ北原家に出入してゐて、その詩才を認められてゐた他、白秋の長歌集『篁』、童謡集『月と胡桃』、そして詩集『海豹と雲』などの装幀について助力したりすることによって愛されてゐた。彼はそのころ短歌を作るといふことはほとんどなかったやうであったが、短歌についての話を私としばしば交したことを記憶してゐる。彼の名を知ったのはしかしもっともっと古い。それは共に少年期であった日、茨城県真壁郡若柳小学校からでてゐた『ワカバ』といふ児童文集の誌上においてであった。『赤い鳥』の児童文学運動が全国を風靡してゐた時代、私は彼の関係してるたその『ワカバ』に文章を書いたのであったが、その雑誌の編集同人の一人に中山省三郎がゐたといふわけであった。そのころ省三郎の弟妹たちが『赤い鳥』の児童自由詩に秀れた才を発揮してゐたこともまた鮮やかに記憶に残ってゐる。
 省三郎のロシア文学者として、詩人としての文業を今更ここにいる必用はない。四十三歳までに遂げたその業蹟は今もなほ赫と光を放ってゐる。
 没後三十一年六月、十年忌の記念として冨士子未亡人の意志により野田宇太郎氏が力を尽して、遺稿詩集『水宿』が上刊された。それは火野葦平の友情にみちた序に飾られた美しい本であった。さらにその二十年忌の四十二年の五月にはこれまた野田氏の編集で写真文集『澳門記』が立派なよそほひを以て上刊された。かうして五年を経て二十五年忌を迎へることになったわけであるが、冨士子未亡人は昨年のある日、二十五年忌の記念として遺稿歌集を出したいといふことを私に話された。私は省三郎の短歌をいくつか雑誌の上で散見したことがあって、生涯に作った短歌を機会を見て一集としておくことの必要であるといふことを考へてゐたので、そのことに賛意を表した。今年になって、その歌稿が手許に届けられたので、それを年代順に並べてつぶさに見た。その数は必ずしも多くはないが、そしてその制作には断間があるが、しかしその作品には秀れたものがあることが認められ、今更ながら省三郎の才質の非凡さに驚いたことであった。
 大正九年の作がもっとも古いものである。大正九年といへば彼の十七歳の年である。詞句のやりとりに未熟をはらみつつもなほ詩情の把握の上にも律格の調整の上にも十七歳少年とは思はれない真性が光ってゐることがはっきりと見られるのである。
 これを出発点として、省三郎は大正期にはかなり歌を作ってゐる。そして折折それらを雑誌に発表してゐる。早稲田大学の学生の作歌グループの機関雑誌として『槻の木』の創刊されたのは大正十五年であるが、その後はその雑誌に時々発表したりしてゐる。しかし昭和になってからの制作は漸次減少してゐる。総じて郷国を同じくする長塚節の歌風の影響をうけてゐるといふことが認められる。写生的な態度を貫いた対自然詠が多いといふことができるのである。
 彼は昭和十七年に、昭和十一年、節の生家で発見した節の遺稿を、整理し解説を付して『長塚節遺稿』一巻として上刊してゐるのであるが、この作業は節の文学の研究史の上における画期的な大きな業績であった。この遺稿発見にからんで、節の母と省三郎の祖父とが乳きょうだいであったといふことを知ったといふことが、その「後記」に書かれてゐるのであるが、節の歌風を慕って作歌してゐた省三郎と節の奇しきゑにしが改めて思はれるのである。
 本集の名の『鴨跖草』は集中の「岡田村行」(大正十三年発表)の中の一首「鬼怒川の堤にしげく鴨跖草は花つくれども刈る人もなし」から採ったのであるが、一つには節と省三郎とのゆかりをも思ひ合せた上で決めたことでもある。節の晩年の作「病中雑詠」に鬼怒川べりの鴨跖草に寄せた相聞の名作のあることは誰しもが知るところであらう。
 僅かであるが俳句の作品も発見されたので、うしろに付け加へることにした。
 この一集によって、詩人中山省三郎の幅が新たに加はったことのよろこびを省三郎を愛する多くの人々とともに味はふことができることはうれしいかぎりである。遺稿を散佚させることなく保存し、また新しく雑誌などから採集された未亡人の努力の並々でなかったことを特記し、また資料について協力された故人の旧友『槻の木』同人の岩津資雄、都筑省吾両氏、さらにさきに『澳門記』を上刊し、いままたこの歌集を美しい装幀によって上刊することの労をとられた故人の門人、東京出版センター社長山田静郎氏の名をあげて感謝の意を表したいと思ふ。
 在天の省三郎のみたまも微笑をもって、この一集の成ったことをよみしてくれることであらうと思ふ。

昭和四十七年五月三十日
木俣修

 

目次

  • われの冬
  • 白埴の壺
  • 岡田村行
  • 竹林
  • 五月
  • 山茶花
  • 無題 
  • 熔岩の山
  • 神宮
  • 拾遺
  • 俳句

解説 中山冨士子
「鴨跖草」について 木俣修


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