流檜 芦田高子歌集

 1951年11月、新興出版社から刊行された芦田高子(1907~1979)の歌集。装幀は丸木位里。新歌人叢書第1。

 

 私はもうかれこれ二十年も歌を作つてゐる。もつともその期間中七八年くらゐは小説に凝つてゐたから厳密にいへば十二三年といふ事になるのだけれども、歌を作る事を知ってからはとにかく二十年にならうとしてゐる。にもかかはらず私の歌は悲しい程進歩してゐない。その原因を私ははつきりと知つてゐる。先づ第一に私には歌の師といふものがなかつた。これは私の大きな不幸であつた。
 暖かくはげまし、慰め、非を指摘してくれる人を持たぬものの歩みは長い徒労の途を迂回してたどつてゐるものである。
 その上私が遮二無二作歌しようとした終戦後でさへも私は全く多忙な医業を事とする家の主婦であつた為に落ついて本をよむゆとりもなく、詩情をあたためるいとまもなく、その上私の夫は歌を作る事に全く異常な反対をしつづけたのであつた。これが第二の、しかも私の文学にとつては致命的な不幸であつた。
 さうした中にあつて、昭和二十二年八月からの歌誌「新歌人」の発行と作歌とをしつづける事は全く辛い努力の傾注であつた。
 私は薬室に乳棒をこねまはし、試験室に尿を検べ、台所に漬物を切り、患者に注射をし、腹膜箝子(かんし)を以て手術に立合ひ、入院患者には食事の世話までした。保険の勧誘員の応待も、社会保険の請求書かきも、税務署の交渉も皆私の手一つにしつづけねばならなかった。
 その間に於て、私は母を失ひ、木造の洋舘一棟を焼失し、遂には悲劇はとどまらないで二十年間苦楽を共にした夫に別離をさへする運命の下におかれたのである。
 この様な状態の中にあつて、私は悲しみのはけ口として歌を作り、苦しみのやりどとして、又反撥として唯滅茶苦茶に歌を作った。
 夫が私の作歌を妨害すればする程、私の作歌意欲はつのり燃え続けた。しかもそれはやうやく月二三回の金沢へ所用があつて出る時、金沢駅と良川駅との所要時間一時間四十分の往復の車中が私の唯一の作歌の時間であつた。汽車の中では私はわざわざ知人とのり合はさない様にして最前車や最後尾車をえらんで乗り、窓から外を眺めてゐる中に自然に心落ついて歌を作つた。たいてい一回十五六首から二十首は作った。汽車の中だけが私の作歌の時間であつたなどと云へば人は本当にはしてくれないだろう。
 私はこれを考へると今も悲しく自身をこの上なく憐れに思ふのである。私の文学は庇護された文学ではない。妨害の連続の中に反撥し抵抗した文学である。性格異常者であつた夫の文学嫌悪は言語に絶する程根強かつた。
インクも原稿用紙も机上のものは皆幾度となくひつくり返された。腕力も度となく揮はれた。新歌人の会員達の歌稿と共に私の歌稿は度々しはくちゃにされ、インクでしみだらけにもされた。その憤怒と悲しみの凝集がこれらの歌である。
 多くの歌人達の歌集のあとがきが、その夫の文学的庇護をたたへ、その妻のの助力をたたへ感謝してゐる中に、ひとり私のみがかうした歎きと憤りを新たにし、その様な文字をつらねなければならぬ事の不幸を今しみじみと思ふのである。 女性であるが故の社会的圧迫と、かうした家庭的圧迫と。その様な中における歌が明るくたのしいわけはない。一日中働き疲れて綿の様になつた頭脳が新鮮な歌をうむ筈がない。飽くまでも憤りと悲しみともがきと。
 けれどもそれらの苦しみ悲しみは必然に私をして社会の前進を盆々要望させた。私は根強く社会の変革を希求した。一切の事象を客観的に批判しょう〟と試みた。溺れようとする従来的作歌態度の中に、敷きつつも多少の客観性と希望があるのはさらした私の目覚めによるものである。たとひ花鳥風月をよんでみても、私はさうした社会の前進を信じのぞむ者の心と態度とをもつて詠みつづけたつもりである。
 然し私も四十三才にして遂に自身で自身の運命を切り拓く事を知つた。精神的動脈硬化からやうやくにして脱する事が出来たのである。離婚がそれであつた。 
 今迄のさうした苦しみときとを先づ一まとめにしてさて更に精進的前進がのぞまれたらと今頻りに思つてゐる。
 私の歌には何ら新味も特徴もないけれども大方の歌人の作品に比してひどく連作が多いのである。「石動山」「母逝く」「挽歌」「机島」「銀霊草」「返り花」「夜の虹」「夜光虫」「日本海」「深田」「麦の花」「四つ身」「螢」「花火」等皆さうであるし、その他にも十一首、八首程度のものでも何だか殆んどが連作であつて短篇小説をよんでゐる様なのである。これは意識して短篇小説的なスケールを打ち出さうとしただけではなく、一つにはその様な作品を作つてゐる時は到底二首や三首ではその感動が表はし切れない大きかった時でもあるし、又一つには私が多少小説を書いた人間であつた事も原因してゐるのだらう。私は連作によつて抒情ゆたかな叙事をも同時にしたいと希つた。然しこれらの作品は私の才能の貧困を表明したにすぎなかつたかも知れない。
 この集に収めた歌は、戦後の五年間における約五百四十首である。
 たまたま、石川県出身の歌人であり、戦後最もしたしくおつき合ひ頂いた坪野哲久氏が、小誌、新歌人の四周年記念大会の時御来沢の際、御多忙中を特に選をして下さったものである。自分ではどんなつまらぬ歌でも愛着があつて思ふ存分切り捨てられない気持がつけ纏ふので、特に選を氏にお願ひした。氏は私の仮名遣の誤りまで訂正して下さった。私にとつてこんなに光栄よろこばしい事はない。
 次にこの集の装幀は、戦後その夫人赤松俊子女史と共にもつとも活躍され画家、丸木位里氏によってなされた。私の貧しい歌集が、氏によつて飾られ、私の拙い歌が氏の装幀によつて生き返らされてゐる事を、この上ないよろこびとしてゐる。氏は広島原爆の直後、逸早く夫人赤松俊子女史と共に広島に赴かれ「幽礼」「火」「水」よりなる三部の大作を描かれ、近くは第四部「虹」第五部」「少年少女」などの大作を完成。上野美術舘をはじめ全国三十八ヶ所、約五十万の人達の展覧に供されて戦後の画壇に一大センセイションを起した方である。この様な氏によつて装はれた私の歌集が持つこれが二つの光栄である。記して以上両氏に心からなる感謝を申上げる次第である。
 尚歌集名の「流檜」はどこにでもある植物で別段珍しくはないが庭園などですつきりと伸びてゐるのを見るのは快よい。どんなにがつしりとした幹でその枝葉はなよなよと垂れてゐ、しかも太い幹につながつてゐてきれいである。長い間この植物の名を知らなかったが、かつて京都のさる料亭でみかけた時吉沢義則博士から「流檜」だと敎はつた。その後或人からは「水流」だといはれた。何れもその枝葉の垂れ工合から来た銘名だと感心した。石川県の百姓の人達はこの二つのよび方をごつちやにして「すりひば」と呼んでゐる。「水流檜葉」の略なのだらう。集中「流檜」の歌は二首しかないが、何となくこの植物そのものがすきなので歌集の名とした事を附記しておく。
一九五一年九月十六日しるす
(「あとがき」より)

 

 


目次

・昭和二十二年 

  • 泡盛草(八首) 
  • 流檜(八首) 
  • 機関室(五首) 
  • 石動山(十一首) 
  • まひる(十一首) 
  • 東尋坊(五首) 
  • 埴土(八首) 
  • 悲願(十一首) 
  • 雹(五首) 
  • 蠟淚(十四首) 

・昭和二十三年 

  • 母逝く(二十三首) 
  • 焼失(八首) 
  • 机島(八首) 
  • 試験室(十七首) 
  • 地溝帯(八首) 
  • 苔寺(五首) 
  • 挽歌(十一首) 
  • 検出(八首) 
  • 銀霊草一(十四首) 
  • 銀霊草二(十一首) 
  • 濁り(十四首) 
  • 返り花(十四首) 
  • 明け昏れ(八首) 
  • 四十路(五首) 

・昭和二十四年 

  • 能登の春(十一首) 
  • 国際婦人デー(八首) 
  • 猫(十一首) 
  • 精子(八首) 
  • 眉丈山(十一首) 
  • 夜の虹(十一首) 
  • 夜光虫(八首) 
  • 手(八首) 
  • 黑潮(八首) 
  • 個(十一首) 
  • 日本海(二十首) 

・昭和二十五年 

  • 深田(十一首) 
  • 麦の花(十一首) 
  • 四つ身(十一首) 
  • けら(八首) 
  • 摺鉢の目(十一首) 
  • 螢(十四首) 
  • ふるさと(八首) 
  • 松は松に(八首) 
  • 逗子(五首) 
  • 別離(八首) 
  • 女の街(八首) 
  • 平和(五首) 

・昭和二十六年 

  • 峠路(十一首) 
  • 一人の座(十一首) 
  • 妙高(十一首) 
  • 雪割草(十一首) 
  • 橋(五首) 
  • 滝川螢(五首) 
  • 柿若葉(五首) 
  • 孤つわが影(十一首) 
  • 兼六園(八首) 
  • 花火(二十五首) 
  • あとがき 

 

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