建設の明暗 中本たか子

 1939年5月、春陽堂書店から刊行された中本たか子(1903~1991)の長編小説。装幀は中川一政。生活文学選集6。

 

 これはまだ、このあとに半分残つてゐます。今、一度に全部を発表し得ないので、とりあへずこれだけ世に送りますが、未完のものでも、充分に読んで頂けるものがあると思ひます。
 私は本篇に於て、従来の私の作品における缺點を充分につぐのつて、新しく文學的形態を整へて来ました。これを是非、取り上げて頂きたいのです。事件は描かれ、社會的様態は描かれてゐても、その中にある人間が描き足りなかったのが、私のこれまでの作品の缺點でしたが、本篇に於て私は、人間を通じて生産を、を眺め、又生産部面や社會的連の上に立つ人間及び人間性が、いかにその時代の客観的情勢に依って變革され、創造されてゆきつゝあるかを描いて見ました。
 近代文學の根本任務は人間の探究でありました。私はその近代文學の傳統を受け継ぎながら、社會的情勢の變遷に依つて我々の認識が複合的となり、組織的となり、合目的的となり、その質量を擴大した認識に応じて、文學をも發展させてゆきたい希望を持ちます。
 隨つて、今日以後の文學は、人間の探究が複合的となり、組織的となり、合目的的となつてゆきます。その故に、今日以後の文學は、文學の不變性と可變性とをその本質に持たねばなりません。不變性は文學の傳統であり、可變性はその時代特有の發展であり、又客観的要素の攝取です。ご飯とお茶に依って我々の生命が養はれ、育つて行くやうに、文學も、常に不性と可愛性とを以て、その生命を進展させなくてはなりません。文學の不變性を持つことは、何人も反對なさらないでせうが、可愛性を攝取することは往々にして邪道のやうに云はれますが、おかずなしにご飯は喰べられません。たゞ、お茶となる可變性が骨ばり、味ひのないのは、私の調理の不巧さによるのです。
 いはゆる生産文學と云へば、文學の可變性を強調したものと云はれ、又さうした傾向を持ち勝ちでした。だが、生産部面を描く文學は、なる文學の可變性の強調のみでなく、可愛性を持った不變性の發展であり、複合でなければなりません。
 私が文學の方向を生産部面にとるのは、そこに新しい文學理念が決定されるからです。
 生産部面は人間生活及び社會の基底であつて、今日の大多数の人々の生活は、生産部面に於てこそより多く營まれてゐます。さうして人々の生活認識も、生産部面を取り入れた人生の穗和、社會的關連の諸部面の綜合に、發展して來ました。人間の生命と事物、個と集團、主觀と客觀、傳統と現實等々の相對性を一元的に統一し、發展させる具體的なる基本行爲が勤勞であると認識されて来ました。勤勞こそは、消費を生産に蘇らせ、單なる物質に生命を浸透させて新なる生命の創造をする辯證法的過程であるのです。こゝに於て、あらゆる相對性は合目的的に統一され、組織されてゆき、普遍的總髑的なる理念へ到達します。この理念は自我の總和であり、相乘であるのです。
 近代文學の人間探究は、自我の解放と擴充とに、その限界を持つてゐましたが、これからの文學は、自我を基本とする處の普遍我の解放と充に任務が擴大して来ました。こに新しい文學理念並にその任務が決定されるのです。
 あまり固い言葉許り並べて来ましたが、新しい文學の任務と方向を概括して、以上のやうに私は考へてゐます。さうした理念によつて、私は本篇をかき、篇に進みます。
 「小説を叙事詩にかくせー」
 さうです、その通りです。その聲が私の耳につき、腦髓の繊維にしみ込んで離れません。それについて悩み抜き、力の足りなさを嘆き、今更、私は面はゆくて俯く外ありません。
(「あとがき」より)

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索