1940年11月、報國社から刊行された萩原恭次郎(1899~1938)の遺稿詩集。
萩原恭次郎が逝いてもう三周忌を迎へやうとして、いまこゝに彼の詩業の一端をしのぶ詩集を刊行することは、深い感慨なくしは與はないところである。
萩原恭次郎の詩業については、彼の人間性への信頼と、彼の詩的天分とによつて大正・昭和の詩壇に不朽であるといへども、――彼のあまりにも早くやつて來たその晩年に於いて、確信を以つて到達したところの東洋への理念と、祖國と同胞への情熱は、彼をして、これからの一歩の踏み出しをさせてゐたのだつたのに――細亞に巨人あり、を見よ――死が、彼を奪ひ去つたのだ。
どんなにか深い觀想と實見の後に、彼が到達して、人にも示さうとした境地について考えると、彼の死は矢張り言葉で云い切れぬ殘念といふべきであらう。
彼はまた――詩が書きたかつたのだ。
彼の詩の羽が、どんなにのびやかに、空翔けたかつたか、――彼の、むしろロマンティシズムへの彷徨を見ても、うなづかれないことはない。この詩集がなるについては、前橋の萩原の友であつた小林定治、横地尚氏らをはじめ多くの人々の力によつたもので、便宜上、岡本潤、小野十三郎、壺井繁治、伊藤信吉、草野心平、(草野だけは國民政府の依囑によつて南京に向つたが)菊岡久利ら主に在京の友人が編纂に當り、出版一切に鬪しては、前田淳一が當つた。
草野心平は、この詩集をして、われらが萩原から受ける最初の花環だとし、菊岡久利は、彼に贈る最初の花束だとして、いづれも感想を他の所で書いてあるが、――藝術的にも、人間的にも、萩原恭次郎の詩業に就いての研究は、恐らく、將來に續く命題で、彼の同郷者であり、彼に親近し、卷末の年譜を擔當した伊藤信吉のその年譜によつて見ても、彼の通過した、藝術上の、また年代上の起伏については、決して大ざつぱな一線とせず、時間々々についてひとつひとつ味はひ深く調べて見るべきと思ふ。
本詩集は、編纂者協議の結果、すべて逆年順とした。
また、かゝる、諸々の共同編纂の仕方による、友情的な記念の本をおくることも意義ある方法と確信する。
「亞細亞に巨人あり」一篇にしても彼は、それに一行か二行相違してゐるに過ぎない殆んど同じ詩を數篇も書いてゐる。
いかに彼が力を入れて詩作してゐるかゞ思ひやられるではないか。また、彼のノート類の、整理の丹念さ、發表後の作品に手を入れてゐるところなど、彼の力作、勞作の跡をしのぶ箇所は隨所に見られるのであつて、「春の流れ」なぞの美しさ、また「コスモス」時代の作品の立派さ、またこん然とした、初期抒情詩、小曲集の面目等、それらは、彼の、荒雄な、雄渾な藝術の半面に、纖細な抒情の本質にも觸れることが出來るであらう。
――しかし、われらはまた、眞に彼の仕事を掘り下げての研究は、恐らく將來に於いて現はれるものと思ふとは云え、故萩原恭次郎への追慕と理解により、いゝ本を作るといふ信念から、こゝに最初の遺稿集のために絶大の力を致された報國社の北岡氏、石倉弘氏、菊池良吉氏の御盡力に關して、厚い感謝を捧げます。
題簽は同郷なる萩原朔太郎氏にいたゞき、裝幀に用ひた紋章は萩原の養家、金井家の定紋「丸に花菱」である。又、原文中みんなでかゝつても讀めない字は……として置いた。
(「解説」より)
目次
題簽 萩原朔太郎
寫眞
自畫像
亞細亞に巨人あり
もうろくづきん
- 流下する雨
- 山猿娘
- 愛する愛するもの
- 夜だけがすべてを見てゐた
- 沈默の兵士外三篇
- 歴史の車輪
- 己れを愛する歌
- 十二月
- 彼方
- もうろくづきん
- 夜の線路にて
- 私達の呼吸は靜かに
- 春風に吹かれるもの
- 山を越えて谷を縫つて
- たより
- ビフテキを食つてゐる生活
言葉
- 言葉
- 一つの話
- 我らがもとを去らむとする少女達に
- 野にて
- 通信
- ある女の仕事
- 睡眠期
- 臆病な獵師とは誰か?
- 共有地の手入れ
- わがのべる手を噛みちぎれ
- 春の糸挽歌
愛は終了され
- 日比谷のベンチで
- 愛は終了され
- 凸凹の皺
- 離れてゆく秋
- おつ母さんと兄弟
斷片(十八章)
抒情詩小曲
詩の欲求(エツセイ)
- 新しき個性について
- 詩の建設に向つて
- 五百年以上でも人類の精神は變らない
- 西川勉のこと
- ハガキ野郎
- 書くことと書かないこと
- 新らしき本
- 詩の欲求
萩原恭次郎年譜
解説