1966年9月、思潮社から刊行された黒田三郎(1919~1980)による現代詩入門書。1961年版の改訂版。
現代はインスタント時代と言われる。何でも即席で間にあうものがはぶりをきかす時代である。
「現代詩入門」というような書物も、インスタント・コーヒーなみに、即席現代詩といった感じを読者にもたれるかもしれない。
しかし、詩は自分で考え、自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の口で口ずさむといった世界に成り立つものである。詩自体が多様であるとともに、個人個人が詩をよむ理由も、詩をつくろうとする理由も多種多様である。
入門書一冊をよめば急に詩がよくわかるようになったり、たちまちじょうずにつくれるようになるといったものではない。自分自身で感じ、自分自身で考えることだけが、詩を味い、詩をつくるためには必要である。
インスタント時代とは反対に、一篇の詩を理解するためには、ゆっくりした時間が必要である。詩はどんなひとの心をも、やすやすととらえる性質をもっているが、また同時に、どんなわかりやすい詩でも、そうやすやすと一目で何もかもがわかるというようなものでもない。それをよむひとが、自分自身で感じ、自分自身で考えることによってはじめて、それはよむひとの心のなかに、植物のようにのびひろがり、根をおろし、花ひらくのである。
だから、この「現代詩入門」は、すぐ間に合う即席の知識を読者に提供しようとするものではない。解説ばやりの世の中で、何についても、ききさえすれば、必らずだれかがそれに要領よく答えてくれるといった錯覚を知らず知らずのうちに僕らはいだいている。その錯覚を錯覚だと思うことから、僕らの詩ははじまる。
僕らが日常生活でわかりきったこととして疑いもしないようなことを、詩は、僕らの全然予期しないような角度から光りをあてて見せてくれることがある。読者にとって、それはひとつの新しい経験である。見ようとするものにしかそれは見えない。即席の知識などには決してなり得ないものである。
そこで、この「現代詩入門」は、入門書の効用を疑うことからはじめた。仮に、即席の知識をこの本から得ようとして読みはじめた読者があったとしても、そういう期待がむなしいということを、この本から読みとっていただければ、それでいいと僕は思っている。ありあわせや間にあわせでは、詩はどうにもならないからである。
またこの本は、そのとおり信じればいいといった優等生のための模範解答案でもない。というのは、一見初歩的に見えることが実は詩人にとっては最もむずかしい問題でもあるのだ。例えば「なぜ詩を書くか」というような問題は、東西古今の古典から要領よく模範解答をあつめてくることもできようが、同時にそれは常に詩人ひとりひとりにとって現在の問題なのである。自分で考え、自分で答えなければならない性質のものであり、誰か他のひとの答えがうまくできているからといって、それを臨時に借りて間にあわせるわけにはゆかない。どんな愚かな答えであろうと、自分で自分なりに答えるところに意味のあることがらである。
では、入門書は何の役にも立たないか。僕は否定的なことばかり述べたついでに、この「現代詩入門」の効用も否定してしまえば、それで首尾一貫したことになる。
間にあわせの知識も、模範解答も、僕にはこれを読者に提供する自信はない。あたり前のわかりきったことに疑いをもつこと、間に合わせの知識や模範解答を疑ってみること、僕は僕なりにこういうことを読者とともに試みようとした。僕なりに愚かな答えを提出してみた場合もある。ただ単に疑ってみるだけならそれはそれだけのことである。疑うことは同時に自分で考えてみることである。何かの権威につくことではなく、自分で考えることにしか、詩への道はないということを読者が感じてくだされば、それでいいのである。そのためにこの本が何かの手がかりを提供するとすれば、著者としてはまことに光栄である。仮に、馬鹿げた教師面をして得々と愚問愚答しているだけだとしても、それを口実にゆるしを乞いたいと思う。
なお、あらたに改訂版を出すに当り、「制作の秘密」二章「作品鑑賞」四章のほか、「形式論」に「詩人とことば」「詩におけることばと形式の問題」の二章を加えた。また旧版の「技術論」第四章「岩田宏の技術」は重複を避けるため削除した。(「あとがき」より)
目次
第一部 本質論
序章=入門書は役立つか
- 詩を書くことはいいことか
- 市民と詩人との間には矛盾と葛藤がある
- 人間としての弱みが詩人の強みになる
- 教科書を学ぶように詩は学べない
- 入門書は薬の効能書きに似ている
- 詩は傷ついた人間のことばだ
1=わかりやすい詩 むずかしい詩
- どんな詩にも書かずにいられない事情がある
- だがすぐれた詩は個人的事情を越える
- わかりやすい詩は誰にでもわかり誰にでも書けるか
- 詩が伝える未知の経験や感情は本来わかりにくい
- 技法の修得によって即席製作される詩は他人のことばを自分のもののように粧う流行の仮面に堕す
2=現代詩になぜ暗喩は必要か
- 詩は日常的なことばを使って非日常的な世界を表現する
- 暗喩は習慣に埋もれていることばに新しい意味をもたせる重要な方法だ
- 普及した暗喩を常套的に使うと陳腐になる
- 比喩はあからさまにいえないことを間接的にいう婉曲法か
- 比喩はもっとも直接的な表現方法だ
3=話しことば 書きことば 詩のことば
- 未知なものに対するあこがれは詩に渇いた心に通じる
- 詩は未知の世界に対する探険だ
- 共通の基盤と専門化した技術から自由になる必要
- 「詩でないもの」へ帰り「詩でないもの」から詩をつくり出す
- いままでの詩は文字によりかかってきた
- 文字によりかかった詩はすたれる
4=進歩的 保守的
- 戦前のモダニズム詩とプロレタリア詩は交わる点をもたなかった
- 「技術」と思想が遊離していた
- 習慣に埋もれたことばをどうこわしてゆくか
- 「候」を口語体に書き直しただけではすまない
- 「書く」伝統と「しゃべる」現実
- 「話しことば」で「書きことば」に血を通わせる
5=直喩と暗喩が生きるとき死ぬとき
- ことばを盗むとはどういうことか
- 模倣や影響を恐れては元も子もなくなる
- すぐれた詩行のどこを盗むか
- 部分の比較で直喩と暗喩のよしあしが見定められる場合と見定められない場合
- 部分の比較ではふできでもすぐれた詩はありうる
- ことばの占める位置が問題だ
第二部 制作の秘密
1=経験する人間と創造の過程
- 作品から作者に遡る操作は幻影にすぎない
- ヴァレリイとエリオットのばあい
- 感動に基いた結果できた詩が感動的とは限らない
- リルケ「詩は感情ではなく経験なのだ」
- 一篇の詩が成り立つまで
- 三好達治、山本太郎、高見順のばあい
2=あるがままに見ることと書くこと
- 子供の表現はなぜ新鮮なのか
- 先入観念でくもった眼鏡
- 放心や無駄な時間の効用
- 精神の極度の集中と拡散
- 詩は創るものであると同時に産まれるものだ
第三部 形式論
1=行の長さと行かえ
- 現代詩は自由詩になり形の基本は崩れ去った
- いいかげんに行わけされていないか
- では何を手がかりに行をきるか
- 三人のモダニズム詩人の行わけ論
2=ソネットとストレス
3=詩人とことば
- 今日のことばをつくることと国語を醇化することは同じではない
- 詩人の社会的な役割を眼に見えることだけで性急に判断したくない
- 現代詩が美しくないというそしり
- 生活と思想との間に生じた乖離
- 文語にかえることはできない
- ことばは事実や経験をそのままつたえる現実のベールではない
- ことばとそれがあらわす事実や経験との間に激しい緊張があってはじめてことばは生きる
4=詩におけることばと形式の問題
- 詩はことばにならない経験をことばにしようとするもの
- 新しい詩は新しい詩語によって成り立つ
- 語彙の類型化
- 岩田宏の「いやな唄」
- 明治時代の詩は詩的だった
- 現代の詩はむしろいわゆる詩的なものの相反である
- 多様ではあるが個々にそれぞれの定形の努力が行われている
- ことばの意味と音の調和を別の方法で個々に具体的な詩そのもので実現してゆかねばならない
第四部 技術論
1=中桐雅夫の技術
- 「夏の遍歴」
- 作者自身の「よい詩とわるい詩」の区別法
- エリオットの一行
- 「自由」が耳掻で「人生」がコーヒーの匙ではかられている
- よき夫でもよき父でもないがよい人間とは
- どんな集約がなされているか
- 「寂しい警官」とは何か
- すぐれた詩は常に未知の世界を背後にしている
2=鮎川信夫の技術
- 「遙かなるブイ」
- 輸送船のうえのひとりの兵士の目
- 過去は単に過去として描かれているのではない
- 「小さいマリの歌」
- この甘い詩を支えているものは何か
- 甘さに感傷的なものが微塵もないということ
- リリカルな形而上詩という奇妙な形容が生きてくる
3=長谷川竜生の技術
4=茨木のり子の技術
- 「六月」
- 問いかけの単刀直入さ
- 詩は作者を勇気づける何物かである、それは同時に読者を勇気づける
- 「女の子のマーチ」
- まじめくさるぽかりが能ではない
- ことばを自由に解放してやること
第五部 作品鑑賞
- 夢の暴力のように読者を襲う
- 断定を保留したい気持を残さないような詩はすぐれた詩とは思えない
- 遊んでいるようなふりをして手ひどい荒業をしているところがある
- 詩自体がまず加害者として読者に対する
- 夢の単純さと現実の複雑怪奇さ
- 現実の単純さと夢の複雑怪奇さ
2=吉原幸子「幼年連祷」
- 論評しにくい詩というものがある
- 甘美でしかも心につきささるリズム
- 「くらい森」
- 「象」
- 感覚的にしみとおってくるもの
- 自分の感情を率直に表現する点でも現代の詩はケチで臆病である
- いわゆる現代詩には欠けている簡明直截なもの
3=高見順「樹木派」から「死の淵より」まで
- はじめて見た文士というものの姿
- 「詩に関するメモ」のこと
- 現代の詩人たちはもはやその詩において素顔をのぞかせようとはしない
- 「作詩」
- 独学でこつこつ書かれた詩
- 価値は決して単に素材と状況に従属するものではない
- 決意の詩.反省の詩
- 自分の志を述べる明確な詩をしりぞけていいなどとは全く思わない
- 求心的に働くことばが自然に客観化された場合それはすぐれて見事な詩となる
- 「立っている樹木」
- 「虹」
4=藤原伸二郎「岩魚」
- 「めぎつね」
- ひとつの鮮明な世界
- ことばに書かれた部分の背後にはことばに書かれない無限のひろがりがある
- 狐は狐であるとともに「青いかげ」である
- 「野狐」(やこ)
- 内部の世界と外部の世界、
- 人間と自然とは対比されているだけではない
- 「東洋の満月」その他
- 「マルテの手記」
- イメージと比喩を通して読者の想像力にすべてを委ねることによって鮮明にされる観念の世界
- 書評「猫。青猫。萩原朔太郎」
第六部 「荒地」論
- 運動が過ぎ去ったあとに残るのは個人個人の作品だけだ
- いわゆる「荒地的なもの」
- 「Xへの献辞」
- 精神的架橋工作としての詩
- 初期の八人の仲間
- 鮎川信夫「死んだ男」
- 「魔の山」の最後のページ
- 森川義信「勾配」
- 旧世代の文化人に対して親殺しの子となろうという決意
- 世界の混乱と無惨さをひとりの人間の不安と絶望をとおして映し出すこと
- 楠田一郎「黒い歌」
- 詩はあらゆるものをきれいごとにしてしまう魔術のことばではない
- 北村太郎「地の人」
- 同時代的なものを強調することが永遠的なものへ向かう唯一の道
- 田村隆一「立棺」
- 悲惨のなかから宗教的なものへ向かうものと社会的なものへ向かうものと
- 「荒地」と吉本隆明の結びつき
- 戦争責任論
- 鈴木喜緑「或る時」
- 高野喜久雄「独楽」
- われわれにおける詩の存在理由はマス・コミニュケーションの網の目からこぼれ落ちてゆくものにかかっている
あとがき